浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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回り道をした人々3

 第2回に書いたN君のように、社会人の間に資金を貯め、なおかつ、在学中もアルバイトをしながら卒業して行った学生が、他にも何人か記憶に残る。

  

 

夕刻のやや遅い時間であった。私と妻は、家から少し遠いところに、まだ営業しているスーパーを探し、翌日のための買い物を済ませようとしていた。そのとき、レジを務めていた、痩せた色白の若い男性が、私の後姿を見るなり、顔をみるみる紅潮させ始めたことに、妻が気付いた。言われてそれとなく目を遣ると、男性はくるりと背を向け、目の届かない場所へ移動した。

 

T君であった。目立たない学生であったが、名前と顔が一致できたのは、比較的珍しい苗字のためである。私の必修単位をなかなか取れず、授業でもあまり見かけなくなっていた。その時は休学中であったかもしれない。

 

 

 

接点が無かったT君

  

T君は高校を卒業した後、社会人を経験してから入学してきたが、単位の取得状況が思わしくなく、卒業は遅れることが予想された。

私は、彼にとって大学進学は意味があったのかと、やや訝っていた。

職を辞して進学し、在学年数を数年もオーバーすれば、支払う学費と在学中の家賃、失う賃金などの合計は、恐らく2000万円を超える。地方都市では、家一軒にも相当する金額である。卒業しても、それだけのメリットが生まれるだろうか・・・?

 

私が担当する必修科目では、レポートが毎週課されている。T君は提出できない週が多く、何週分かまとめて提出するが、必須問題の多くが未解答であったので、添削指導できる余地がほとんどなかった。私は、不真面目な学生ではないものの、あまり勉学に熱心ではない、という印象を持っていた。

良く覚えていないが、必修以外の私の選択科目は、履修していなかったように思う。また、常に一人で行動しているため、他の学生が彼について語ることはなく、N君のように、個人的に話をする機会もなかった。要するに、私とは全く接点が無かったのである。

 

休学を挟みながら、かなりの年数が経過し、ほぼ忘れていた頃、教授会で配布された卒業予定者名簿の中に、彼の名前を見つけ、学籍が失われていなかったことを知った。

 

 

再会の日

 

月日はさらに流れ、 私の退職の日が近づいてきた。そして遂に、最終講義の日を迎えた。

 

拍手に送られて講義を終え、正装のまま花束を手に、研究室へ戻ったところへ、同僚の教授が40歳前後の男性を連れてきた。

 

 「タローさんは、覚えておられないと思いますが・・・彼はT君と言って、

  10数年前に、ここを卒業した学生です」

 

私は見違えるようになった、長身の男性を見上げた。私の記憶にあるT君は、青白く、病み上がりのような印象であったが、目の前の男性は、今は眼鏡をかけ、相変わらず細身であるが、社会人らしい律義さと精悍さに満ちていた。これほどの長身とは思っていなかった。

 

同僚は続けた。

 

 「それから7年後に、彼は放送大学の大学院に社会人入学して、タローさん

  には話していませんでしたが、私が御世話して、修士号をとりました。」

 

 「それで今は、うちの学科ではないのですが、電子の〇〇先生の研究室に、

  博士課程の社会人学生として在籍しています。研究内容は電子と言うより、

       どちらかというと情報系になりますが・・・  もうじき博士論文が提出

  できる見込みで、IT関係の企業に就職が内定しています」

 

 

 T君が口を開いた。手に菓子折りを持ち、私に頭を下げて

 

 「博士論文が決まったら、先生に御挨拶しようと、ずっと思っていたの

  ですが、今年で先生が退職されることを、今日初めて知りまして・・」

 

 「先生は退職されたら東京に行かれると伺ったので、これが最後の機会かと

  思って、慌てて・・・ こんなものしか用意できませんでしたが、先生の

  お好きな御菓子と伺ったので・・・」

 

 

彼がこんなに近くにいたとは、思いもよらなかった。階の異なる他学科であり、また社会人学生なので、すれ違う機会もほとんど無かったが・・・

たとえすれ違っても、私は分からなかったであろう。

 

私が言葉を見い出せずにいると、

 

 「浦島先生のレポートの問題・・・いつも提出が追い付かず、単位をとる

  のに時間がかかってしまいましたが、先生が示される水準まで出来ていな

  ければ、先へ行ってはいけないということは、自分でも良く解りました」

 

 「それで・・・また時間がかかってしまいましたが、どこまでやらなければ

  いけないかを、いつも考えながら、次を勉強してきました・・・

  あの授業がなければ、それが分からず、続けられなかったと思います」

 

と、もう一度、深々と頭を下げた。

 

 

彼は今や、顔を赤らめた、あの内気な青年ではなかった。博士号をほぼ手中にし、良い就職も内定して、自分のやってきたことに手応えを感じつつ、迷いなく自分の道を歩んでいる。

 

いや、恐らく、私の知る学生時代から、迷いはなかったのであろう。働きながらの就学は厳しい。私は、正当に彼を評価していなかった自分を恥じた。

 

 

存在していた接点

 

彼の最後の言葉に、すべてが語られていた。

 

困難な道を進むためには、「どこまでやって次に行くか」という線を、自分で判断できることが重要である。

それには経験を積み、自分を客観視する謙虚さと、前に進む勇気との間の、バランス感覚を育てなければならない。多くの人は、最初のうち前者が足りないのである。彼は私のレポート評価を指導と受け止め、その線が見えるまで努力した。そして勇気を失わず、着実に先に進む事が出来た。

 

在学中は接点が見えず、私は彼の人生において、何らかの助けになっている、という感覚を持てなかった。しかし接点は存在していた。彼はそれを大切にしていた。

彼の言葉は、退職する私には、最大のはなむけであった。

 

 

進学は正しい選択だった。

 

古い世代の老婆心から私は案じたが、時代は大きく変わり、今は安定した職ではなく、安定して働ける力が重要となっている。

 

そして彼は、生涯働ける力を身につけた。

 

 

 

 

回り道をした人々2

若い人々は、かつてのように、人生を急がなくなったのかもしれない。

 

大学へ入学する人々の年齢が、昔に比べると高くなってきた。

高校を卒業し、社会人を何年か経験してから入学する者、他大学から進路変更して転入してくる者、高校を中退し、大検を経て入学した者・・・

 

雇用が流動化し始めたことや、定年の延長、年金制度の崩壊など、様々な要因から、腰を据えて人生に立ち向かう人々が出始めた感がある。

 

年齢の高い学生は、概して精神年齢も高く、非常に教えやすかった。とくに、社会人の間に勉学資金を蓄えてやってきた人々は、モーティベーションが高い。

そして、予備校などには行かず、独学で入学試験に合格している。大学教育には、むしろ余計な小技を受験勉強で身に付けていない人々の方が、すんなり順応できる。

 

 

N君の話

  

記憶が正しければ、私が教えた中で最も年齢の高かった学部学生は、入学時に42歳だったN君である。

 

彼の仕事は「とび職」であった。私の研究室は、新しい12階建の棟にあったが、「この建物はオレがやったよ」と言っていた。

 

高校の卒業証書は手にしたが、祖父の営む土建業の手伝いばかりで、何も勉強はしておらず、「1/3も出席しなかった」そうである。

 

若い時、家族を持っていたが、妻子と別れ、自由な独り身になってから、ある日古本屋で、最も安い参考書や問題集を買い、自分で勉強を始めた。

 

  「オレの本はどれも、105円だよ、消費税込みで」

 

  「金が無いから一番安い本を買ったんだけど、それが一番良かった。結局。 

   詳しく書いてあるし、問題も難しい。こういうのは、誰も買わないから安い」

 

  「皆が欲しがる薄っぺらい本は、高いだけで、読んでも絶対解らないよ・・・」

 

完全にゼロからのスタートであったので、最初のうちは、勉強していると吐き気がしたという。「男は外で働け」が口癖の祖父に育てられ、子供のころから文字をほとんど読まない生活を送っていた。文章を読むのに時間がかかり、辛かったそうだ。だが、計算は全く辛くない、と言っていた。

 

N君は他学科(電子系)の学生であったが、1年生の教養科目を皮切りに、私が担当する5科目の物理の専門科目をすべて履修した。私の授業内容を完全に理解した学生の一人である。

物理系の基本科目はすべて履修したかったが、自分と同じ年齢のMという教官に妨害された、と言っていた。1科目を履修した後、理不尽な理由でその後の履修登録を拒否された、というのである。どうやら、最初に履修した授業で、説明の間違いをN君が指摘したのが原因のようである。M氏の授業には内容的に問題が多いことを、私も承知していたが、これには少し驚いた。

その授業では、「オレが教えてやった奴らはみんなSかAで、オレだけCだった」ので、試験の採点結果を見せるように要求したところ、文字の書き間違いなど、内容に全く関係ないところで、大きく減点され、「これを間違えるということは、何も解っていないということだ」と言われたそうだ。

 

物理の女子学生から「おじさま」と呼ばれ、彼女たちのレポートを助けていた。ただし私の指示を守り、解答を教えるのでなく、私の与えるヒントの生かし方をアドバイスしてくれていたので、私は大いに助かった。その年は私が在職する最後の年であったが、女子の学力は、在職中の最高を記録した。

 

私はレポート課題に、少数ではあるが、真のアカデミック・マインドを必要とする問題を含めていた。研究者になりたい、という学生がいた場合、まずこれらに独力で挑むことを勧める。N君はヒントなしには無理であったが、彼の計算力は、添削指導を始めてから1年で、私の学生時代と変わらないレベルに達し、問題の意図や目的を完全に理解していた。彼は、研究者向きの人間であった。

 

成績優秀のため、彼は2年次以降、授業料を全額免除されていたが、貯金が底をついたので、卒業後は働くと述べていた。すでに働きながらであり、「卒業研究に入ったら、週2回しか来れないので、その条件で指導してくれる研究室を探している」と言っていた。

「大学院には行かないので、卒研で修士と同じレベルのテーマをやらせてくれるところ」とも付け加えた。私の退職後に卒業研究のファイルを送ってくれたが、確かに修士のレベルであった。

 

 

とび職に戻るのか、と尋ねると「そっちの仕事は、もうやらない」と答えた。

すでに亡くなった祖父の工務店は閉めていた。あちこちの会社に、請け負った工事費を踏み倒され、数千万円以上の被害に遭っていた。

 

訴えるところはないのか、と聞くと、ややいきり立って、

 

  「オレ達は食わなきゃならねえから・・・そんなことやってる時間はないんだ。

   オレ達より大きな会社の、大学出た奴らは、こっちが何も出来ないことが解っ

   てるから、踏み倒すんだよ」

 

そう言ってから、

 

  「まあ、Mみたいな奴が、いっぱい居るっていうことだよ・・・ああ、だから

   オレは、あいつには、別に驚かなかったよ。始めて顔を合わせたときに、

   どういう奴かすぐに分かったから。大学にもいるんだな・・・」

 

  「世の中、そんなことだらけだから、オレはいちいち気にしない。けど、オレ

   みたいな目に遭っている人間は沢山いるから、オレ達の世界では、何も出来

   ない能無しの大卒を見つけると、よってたかって苛めて、潰すんだ・・・

   苛められて追い出されて、もう行く所がなくなる。そこまでやられるよ」

 

・・・と、恐ろしいことを言った。

 

  「浦島先生の授業から逃げる奴らは、世の中のことを知らないから、逃げ

   るんだな。あれじゃ必ず潰されるよ。 ニワトリと同じだからな・・・

   丸覚えで試験受けて、終わって3歩あるいたら、全部忘れてる・・・」

 

 

彼は大学院の修士まで進めば、科学計算を専門とする会社で十分にやって行ける。年齢にとらわれず、これから30年働ける会社もある。就職の世話をしても良い、と水を向けると、「自分は爺さんと同じで、体を使って働く人間なので、机の前に座りっぱなしは性に合わない」と述べた。 

では、勉強は辛かったか、と尋ねると、「物凄く大変だった。大変だったけど、1人でレポートの問題を考えている時、こんな楽しい時間は無かった」と答えた。

 

彼はボイラー士の上級資格を取り、見張っているだけで十分な収入を得られる職に就ける予定だそうである。合格者が殆ど出ない、年に一度の資格試験だが、大学の物理の勉強に比べたら何でもない、と笑っていた。彼は、自分の学科の定期試験は、ほとんど常に満点だったのである。

見張ると言っても、ずっと目を光らせている必要はないので、勤務中に好きな勉強ができる。前からやりたかった生物物理の勉強を始めている、とのことであった。そこで私の授業で学んだ知識が役に立っているそうである。

 

  「オレ一人、食えればいいんだ。老後は必要ない。体が動く間は働いて、

   動けなくなった時に死ぬだけだ」

 

  「オレの親父もそうだったよ。死ぬ直前までマラソンしてた。しょっちゅう

   筋トレやっててさ、末期癌で痛いのを、筋肉痛だと思ってたな・・・」 

 

 

1年次の秋に、「馬鹿馬鹿しいから退学しよう」と思った。だが、授業料を払ってしまったので、最後の学期と思って履修した私の教養単位で、初めてモーティベーションが湧いたそうである。

修練を伴わない「お話し」を教養と見做さない私は、高校の復習を兼ねながら、ある程度体系的な力学の入門を行い、多少の添削指導も行っていた。 

 

N君の言葉には、時々、私もドキリとさせる辛辣さがあったが、彼の生きる覚悟は快かった。「教養の授業とは思えない、重たい授業だった」と言いながら、「はじめて、この大学に入った意味があったと思えた」と言ってくれたことが、嬉しかった。

  

 

N君を「回り道をした人々」に入れたのは、正しくなかった。

彼は、寄り道をしたのである。

そして寄り道で、人生を豊かにすることを知った。

 

ある転職

教授人事の日

 

以前の「タテの教育とヨコの教育」の記事で、スイスの大学で知ったヨーロッパの大学人事の内情を紹介した。その後、実際にこの大学で素粒子論の教授が退任し、それに伴って、新任の教授の選考が行われた。

 

この日のコーヒータイムは、人々が選考を終えた直後であった。 

この大学の研究員を長年務め、有力候補の一人だった43歳のスイス人が、数週間続く長い議論の末、最終候補から外されていた。彼は昼食には同席せず、やや重苦しい雰囲気が流れていた。 

その他に、この大学に狙いを定め、数か月、ゲストとして滞在していた、流暢なアメリカ英語を話すスウェーデン人も応募しており、最終候補に残っていた。アメリカ帰りとしては異例に、良いところまで行ったが、プレゼンの結果、人々はやはり教育に不安を感じたとのことであった。壁は厚かったようである。採用されたのは、34歳のチューリッヒの研究員であった。 

 

 

選考の基準

 

34歳と言うのは、日本では異例の若さであるが、この大学の教官はほとんど、30代の半ばで着任している。B教授も、36歳で着任していた。

スイスの大学では、正規スタッフは全員が教授で、准教授・講師などの職制上の階層構造が無い。ポスドクから突然、教授に抜擢されるので、着任時は若いのである。

そして30代の半ばを過ぎると、採用されるチャンスは急激に小さくなる。そこで研究者としての力量と将来性が、ほぼ明確に見えてくるからであろう。隣の数学教室でも教授人事が行われたが、決まったのは28歳の若者であった。さすがにこれは異例である。

 

候補から外れたスイス人は、かなりの業績を積んだ人で、ジュネーブにあるCERN(欧州原子核研究機構)のEU共同プロジェクトに、政府が送り込んだ一人であった。そして10年近く前に、他大学に教授として迎えられるチャンスがあった。

これを前任の教授が引き止めたのである。その時、教授の退任時に引き継いでもらう、という口約束があった。彼の故郷は車で30分ほどの村であり、彼はそこに生活の基盤があったので、これに応じた。

 

10年の歳月のうちに、教室のメンバーも入れ替えが進み、その約束は反故にされた。

経緯は周知の事実であった。業績は一流で、量・質ともに十分なものがあり、決して不適格な候補者ではなかった。

が、物理教室の発展のため、現在進行形で著しく進展している領域を専門とする若手が優先された。

  

 

若手が特定の有力な研究者との共同研究に、自分の研究人生をかけてしまうことは、大きな危険を伴う。優れた研究者でも、晩年は新しいテーマに手を出さなくなる。そのような長期の共同研究は、研究の質を高めることはできるが、知らず知らずのうちに、幅を狭くする。

自然科学は動きが激しいので、従来と同じ路線を継承することは、大学全体の研究活動の衰退を招く。そのため、どの大学も後任人事では新しい方向性を求める。このあたりのヨーロッパ人の判断は非常に厳しく、学問以外の私情を決して挟まない。

 

誰しも、私情が無い訳ではない。彼は大変親切な人で、人々から好感を持たれていた。そして、スイスでは43歳の者が、他大学で教授に採用されることが不可能であることも、誰もが解っていた。

彼はすべてのスタッフにアピールして回っていたが、彼が候補者から外れるであろうということは、B教授から少し前に、内々に予想を聞いていた。

本来は決してゲストに漏らすような話ではないが、教授たちは私が居合わせるとき、英語で話すことを礼儀としていたので、私も様々な会話の断片から、大体の様子は解ってきていた。とくに私は彼に色々と世話になっていたので、日常の接触への配慮として、事前にきちんと伝えた方が良いと判断したのであろう。

 

 

・・・そして転職

 

その後、間もなく良いニュースが届いた。彼は故郷の村の近くに新たに建設された先進医療の施設で、放射線治療の技術責任者の職に就いた。給与面での良い待遇と、時間的に余裕の持てる条件で契約し、引き続き大学で研究を続けられることになった。

 

再び彼をキャンパスで良く見かけ、頻度は減ったが、ティータイムでも顔を合わせるようになった。それまで担っていた授業担当や、スーパーコンピュータの維持・整備の重荷から解放され、大学にいる間は研究に専念できる。研究時間はそれほど大幅に減らなかった。

 

彼がこの職を得るために、スタッフたちは色々と支援した。とくに、有名な外科医を弟に持つ教授が、積極的に動いた結果であった。 その教授もB教授と同様に、私に彼の事情を個人的に伝えていたが、私情との葛藤に苦しんでいた。

 

他の国々であれば、転職と同時に研究を諦めるところであるが、その点、スイスは非常に柔軟である。高校の教員なども、大学の研究員とのかけ持ちが可能であるので、多くの研究者が教職に就いて研究を続ける。

 

日本であれば、高校の教員免許は勿論であるが、医療業務に従事するには、相応の資格が必要である。先進国はどこでも、このような資格には厳しい。

しかし、スイスはまた別の判断をする。とくに当時は、多種類の放射線や粒子線が医療現場で使われ始めた時期で、機器の運転・管理だけでなく、放射線の詳細な知識やオンライン化が、最も必要とされるところであった。

時節も良かった。ある物理学者が提唱した、3方向からのX線照射の回折データから立体画像を構成する計算方式が、医療現場で実用化された。これが巨額の医療ビジネスとなり、物理的先進医療への大きな流れを作っていた。そしてMRI(=核磁気共鳴断層撮影) など幾つもの新技術が、実用化目前であった。彼はこのような流れに、全般的に対応できると期待された。

 

そして彼に研究を継続させることは、これまでの国の教育投資を生かし、素粒子論におけるスイスの研究者人口の1パーセントを、失わずに済むのである。ヨーロッパで最も豊かな国と言われるスイスの強さの秘密は、一つにはこのような人材登用の柔軟性にある。

 

 

そしてまた、古巣の研究場所から離れず、様々な感情を切り離して研究人生を全うする選択をした強さも、さすがである。

 

 

 

2018年5月18日

 

ひと口笑い話: ミニ言語学18

 

     英語       日本語

         bin                              瓶 (びん)

 

 注: カンがあればビンもあるでしょう・・・

 

スイスの鉄道網

私は鉄道マニアではないが、スイスの鉄道は楽しい。のんびりとした雰囲気ながら、全体として利便性が非常に高く、精巧にシステムが組まれている。

 

 

グリーンの車両と簡素な駅

 

殆どが2両編成であり、見た目の印象としては、日本の地方都市の廃線寸前の路線に、やや似ている。実際に、便数はその程度しかない。

ただ、車両は古いが厚みがあり、がっちりと体格が良い。車体の色と座席シートの色は、濃いグリーンで統一され、清掃も行き届いていた。座席は向かい合わせのボックスになっていて、通勤にも旅情がある。

スイスと言えば、私は湖と濃いグリーンの列車を思い出す。

 

ハブ駅以外は殆どが無人である。簡素な作りで、プラットフォームの中央に屋根つきのベンチがある。改札はなく、端まで行って数段ステップを降りれば、そこから歩道である。面倒なら、そこまで行かずに飛び降りても良い。プラットフォームからポンと飛び降りれば、即、街行く人々の仲間入りである。

車掌が廻って来てチケットを確認するので、このような駅では、切符を買わずに乗車し、車中で買えばよい。

単線の区間があるので、すれ違いのため少し停車する場合もある。そのような駅では車窓の乗客を相手に、軽食の販売がある。その時に買う土地の焼きたてのクロワッサンは、大変美味しかった。

 

 

通勤の指定席

 

日本の首都圏のように、殆ど待たずに乗車できる頻繁なサービスはない。住宅地の開発に際しては、人口分散が非常に慎重に計算されており、通勤時間帯でも30分に1便の2両編成で足りるようになっている。

 

滞在中の私は、単身のときは学生寮に宿泊していたが、家族連れの時は、大学から数駅離れた村に家を借り、鉄道を利用した。通勤時間帯の車両はほぼ満席であったが、実質的にすべての個人に「指定席」が用意されている。いつも同じ席に同じ人が座っているのである。B教授に「最初の日は目的地まで立ち、その区間でずっと空いている席を確認し、次の日からそこに座るように」とアドバイスされた。そうすると、指定席が貰える訳である。

立つ人が出始めると車両が増やされ、場合により増便されるが、このプロセスは非常にゆっくりで、あったとしても数年に一度より頻度が少ない。

 

そして料金は、1回ごとの乗車について払えば日本と同程度の金額であるが、国民の殆どが1年単位の全線フリーパスを購入する。この場合は非常に低料金である。

良く覚えていないが、家族パスや、1か月単位の旅行者向けのパスもあったような気がする。車のガソリン代より安く、国は通勤に鉄道の利用を奨励し、道路の渋滞の緩和に努めているようである。

 

 

出会いのネットワーク

 

スイスは国全体が山岳・丘陵地帯であるので、鉄道は谷間の細い平地を縫って進む。町も細長く谷間に沿っているので、交通はやや1次元的で、2次元特有の放射状特異点が発生しない。まさにネットワークである。ただ、大雨による土砂崩れで寸断される頻度が高い。こうなると輸送機能へのダメージが大きいので、スイス陸軍(常備軍)が緊急出動し、復旧にあたる。

 

通勤時間帯以外は、1時間に1便しかないが、乗り換え駅では必ず、どの方面にも2,3分で接続されるように、見事にダイヤが組まれている。効率は良いが、乗り換えは忙しい。もたついて接続を逃すと、必ず1時間遅れることになる。

 

そして終電は非常に早い。夏場は、まだ明るいうちに終わりになる。大学では通学に電車を使う学生も多かったが、最後の授業に出席すると、ある村に住む学生は帰れなかった。そこで、その村の学生が履修している場合、その時間帯の授業は15分短縮されるのが通例になっていた。

 

正午付近の電車は、どこも生徒で混み合う。日本の小中校生にあたる子供たちは、午前中で授業を終了し、帰宅して家で食事する。スイスは日本のように専業主婦の割合が多いのであろう。高校生になると、午後も少し授業があるが、彼等も一度帰宅し、また登校する。交通費の負担が増えないので、これが可能となる。おそらく、学校でも食事ができるであろうが・・・

 

小さな国土の全体に張り巡らされ、接続は良いが便数の少ない鉄道網を、人口800万人の全員が使うと、必然的に、乗換駅では知り合いに出会う確率が増える。そして、B教授と共に行動すると、彼は必ずといって良いほど、色々な人に声をかけられ、立ち話をした。

 

実は、彼については特別な事情があったが、これについては別のところで話そう。

 

 

 

2018年5月14日

 

 

ひと口笑い話: ミニ言語学17

 

     英語       中国語        日本語

        can                              函       缶、

 

    注: 正しいはずです