浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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ある転職

教授人事の日

 

以前の「タテの教育とヨコの教育」の記事で、スイスの大学で知ったヨーロッパの大学人事の内情を紹介した。その後、実際にこの大学で素粒子論の教授が退任し、それに伴って、新任の教授の選考が行われた。

 

この日のコーヒータイムは、人々が選考を終えた直後であった。 

この大学の研究員を長年務め、有力候補の一人だった43歳のスイス人が、数週間続く長い議論の末、最終候補から外されていた。彼は昼食には同席せず、やや重苦しい雰囲気が流れていた。 

その他に、この大学に狙いを定め、数か月、ゲストとして滞在していた、流暢なアメリカ英語を話すスウェーデン人も応募しており、最終候補に残っていた。アメリカ帰りとしては異例に、良いところまで行ったが、プレゼンの結果、人々はやはり教育に不安を感じたとのことであった。壁は厚かったようである。採用されたのは、34歳のチューリッヒの研究員であった。 

 

 

選考の基準

 

34歳と言うのは、日本では異例の若さであるが、この大学の教官はほとんど、30代の半ばで着任している。B教授も、36歳で着任していた。

スイスの大学では、正規スタッフは全員が教授で、准教授・講師などの職制上の階層構造が無い。ポスドクから突然、教授に抜擢されるので、着任時は若いのである。

そして30代の半ばを過ぎると、採用されるチャンスは急激に小さくなる。そこで研究者としての力量と将来性が、ほぼ明確に見えてくるからであろう。隣の数学教室でも教授人事が行われたが、決まったのは28歳の若者であった。さすがにこれは異例である。

 

候補から外れたスイス人は、かなりの業績を積んだ人で、ジュネーブにあるCERN(欧州原子核研究機構)のEU共同プロジェクトに、政府が送り込んだ一人であった。そして10年近く前に、他大学に教授として迎えられるチャンスがあった。

これを前任の教授が引き止めたのである。その時、教授の退任時に引き継いでもらう、という口約束があった。彼の故郷は車で30分ほどの村であり、彼はそこに生活の基盤があったので、これに応じた。

 

10年の歳月のうちに、教室のメンバーも入れ替えが進み、その約束は反故にされた。

経緯は周知の事実であった。業績は一流で、量・質ともに十分なものがあり、決して不適格な候補者ではなかった。

が、物理教室の発展のため、現在進行形で著しく進展している領域を専門とする若手が優先された。

  

 

若手が特定の有力な研究者との共同研究に、自分の研究人生をかけてしまうことは、大きな危険を伴う。優れた研究者でも、晩年は新しいテーマに手を出さなくなる。そのような長期の共同研究は、研究の質を高めることはできるが、知らず知らずのうちに、幅を狭くする。

自然科学は動きが激しいので、従来と同じ路線を継承することは、大学全体の研究活動の衰退を招く。そのため、どの大学も後任人事では新しい方向性を求める。このあたりのヨーロッパ人の判断は非常に厳しく、学問以外の私情を決して挟まない。

 

誰しも、私情が無い訳ではない。彼は大変親切な人で、人々から好感を持たれていた。そして、スイスでは43歳の者が、他大学で教授に採用されることが不可能であることも、誰もが解っていた。

彼はすべてのスタッフにアピールして回っていたが、彼が候補者から外れるであろうということは、B教授から少し前に、内々に予想を聞いていた。

本来は決してゲストに漏らすような話ではないが、教授たちは私が居合わせるとき、英語で話すことを礼儀としていたので、私も様々な会話の断片から、大体の様子は解ってきていた。とくに私は彼に色々と世話になっていたので、日常の接触への配慮として、事前にきちんと伝えた方が良いと判断したのであろう。

 

 

・・・そして転職

 

その後、間もなく良いニュースが届いた。彼は故郷の村の近くに新たに建設された先進医療の施設で、放射線治療の技術責任者の職に就いた。給与面での良い待遇と、時間的に余裕の持てる条件で契約し、引き続き大学で研究を続けられることになった。

 

再び彼をキャンパスで良く見かけ、頻度は減ったが、ティータイムでも顔を合わせるようになった。それまで担っていた授業担当や、スーパーコンピュータの維持・整備の重荷から解放され、大学にいる間は研究に専念できる。研究時間はそれほど大幅に減らなかった。

 

彼がこの職を得るために、スタッフたちは色々と支援した。とくに、有名な外科医を弟に持つ教授が、積極的に動いた結果であった。 その教授もB教授と同様に、私に彼の事情を個人的に伝えていたが、私情との葛藤に苦しんでいた。

 

他の国々であれば、転職と同時に研究を諦めるところであるが、その点、スイスは非常に柔軟である。高校の教員なども、大学の研究員とのかけ持ちが可能であるので、多くの研究者が教職に就いて研究を続ける。

 

日本であれば、高校の教員免許は勿論であるが、医療業務に従事するには、相応の資格が必要である。先進国はどこでも、このような資格には厳しい。

しかし、スイスはまた別の判断をする。とくに当時は、多種類の放射線や粒子線が医療現場で使われ始めた時期で、機器の運転・管理だけでなく、放射線の詳細な知識やオンライン化が、最も必要とされるところであった。

時節も良かった。ある物理学者が提唱した、3方向からのX線照射の回折データから立体画像を構成する計算方式が、医療現場で実用化された。これが巨額の医療ビジネスとなり、物理的先進医療への大きな流れを作っていた。そしてMRI(=核磁気共鳴断層撮影) など幾つもの新技術が、実用化目前であった。彼はこのような流れに、全般的に対応できると期待された。

 

そして彼に研究を継続させることは、これまでの国の教育投資を生かし、素粒子論におけるスイスの研究者人口の1パーセントを、失わずに済むのである。ヨーロッパで最も豊かな国と言われるスイスの強さの秘密は、一つにはこのような人材登用の柔軟性にある。

 

 

そしてまた、古巣の研究場所から離れず、様々な感情を切り離して研究人生を全うする選択をした強さも、さすがである。