浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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子供教育の注意事項2ー未知と遭遇するとき

学習は未知との遭遇である。ここで学習とは、必ずしも学校の勉強という意味ではない。成長過程での、広い意味の「学び」である。

 

未知に向かうことは、暗闇の洞窟を歩くようなものである。そう簡単に足が前に出るものではない。暗闇で強引に手を引っ張り、無理に歩かせようとすれば、手を引かれた方は座り込んでしまう。教える者は道案内役であり、前方を照らし、安心感を与える必要がある。 

 

前回の記事で私は、「教える者と教わる者が概念を共有しなければ、教育上のコミュニケーションが成立しない」と書いた。概念はまた、前方を照らす灯りでもある。子供が言葉を話し始める頃から、親は子供に色々なことを教え始めると思うが、そのとき、子供が教えられたことを受け取れるだけの概念を持っているか、親は注意する必要がある。その準備が出来ていなければ、知識を与えることは、少し待った方が良い。

 

例えば、「初めてのおつかい」という番組があるが、これは売り場で商品を自分で手に取り、カートに入れてレジに行き、お金を払う、釣り銭を受け取る、という一連の流れが分かった上での「初めて」である。子供はすでに、買い物とはどのようなものか、という概念を持っている。その前提がなければ、いかに賢い子供でも、買い物の初体験は不可能である。

 

概念を欠いているにもかかわらず無理に教え込むと、インストールに失敗し、心の動作に不具合を生ずる。一度そうなると、かなり厄介である。知識だけなら、簡単にデータの書き換えで済むが、プログラムとなると、人間の脳は簡単にアンインストールできない。修正には多大な時間と労力を要する。

 

 私自身の例を示そう。

 

 

例1:右と左 

 

私が子供の時に理解できなかった言葉の一つに、「右」と「左」があった。何歳の頃か忘れたが、茶碗を持つ方が左手、箸を持つ方が右手、と教えられた。そう教えながら、私の母は、自分が茶碗を持つ手の側を、右と言っていた。私はまずそれで混乱した。

 

上と下、あるいは東西南北は、誰にとっても共通な、客体的な概念である。しかし右と左はそうではない。2人の人間が向かい合っているとき、同じ方角が、一人にとっては右、もう一人にとっては左、ということになる。つまり、左右は主体的な概念である。

 

幼児の話す言葉は、多分に主体的な概念で構成されている。大人はそれに合わせて会話してやる必要がある。幼児を「君」と呼ぶかわりに、「撲」と呼ぶのは、その例である。

 

しかし、社会的な言語はほとんど、客体的な視点での表現として成立している。言葉を話し始めた幼児は、それを理解し始めており、その段階で主体的な概念の言葉を混ぜると、却って混乱する。

 

私の場合、混乱はかなり尾を引いたようである。小学校に進み、こちらが右ですよ、学校に行く時は右側を歩きなさい、と言われ、帰りも同じ側を歩いて叱られた記憶がある。理解がこじれ、「向かって右」などという表現は、さらに分からなくなった。

 

朝礼の「まわれ右」では、私は意図的にランダムな方向に回った。叱られる確率を1/2に減らすためである。

 

 

例2:時間と時計 

 

もう一つの例として、私の場合には時計があった。

 

小学校に入学する前であったが、私はすでに数を理解して多少の暗算ができ、本を読んでいたので、私の父は、幼稚園に通っていなかった私が時計の読み方を学べるように、大小の針を持つ時計の文字盤を、ボール紙細工で作った。

 

それを使って教えたのは母であるが、母は長針が1時間で文字盤を一周し、短針が同じ時間内に数字一つだけ進む、という時計の基本的な機能を説明しなかった。ボール紙の時計で針の位置を色々変え、指した時刻を読みとることを教え込もうとした。

 

私は原理が解らずにやり方を覚えるという学習方法は、幼児の頃から(現在に至るまで)全く受け付けなかったので、長い間、時計を読むことができなかった。

 

私がこの時期に、必ずしも時間という概念を欠いていた訳ではないと思う。時の経過は、幼児なりに認識できていたはずである。

 

しかし私は、「時間は測ることができる」ということまでは、理解していなかったのかもしれない。いずれにしろ、時計とはどのような働きをするものなのか、予想がつかなかった。その段階で、読み方だけを教えられたため、心が閉じて、受け付けなかったのである。前回の記事で「暗闇で手を引かれると人は座り込む」と書いたが、そのような状況であった。

 

  

時計については、いろいろ話の続きがあり、次回に詳しくお話しする。

 

(続く)