浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

~記事へのコメントは歓迎です~

英国の虫

 

 

計算する時

 

最初から脱線した話で恐縮だが、物理屋は計算をするとき、多くの記号を使用する。

   

a,b,c・・・i,j,k・・・x,y,z  というアルファベットである。

アルファベットの前半は定数、後半は変数と、用途が習慣的に決まっている。途中の i からnまでの6文字は、整数を表す場合が多い。

 

計算を進めて行くと、途中で新しい変数や定数・関数を表す記号が、次々と必要になる。

小文字も大文字も使用し、大文字は筆記体と立体を区別する。ギリシャ文字も使用できる。α、β、γ・・・ξ、η、ζ・・・幾つかは、大文字も使える。Γ、Ψ、Θ・・・

 

記号はそれでも、すぐに足りなくなる。頻繁に登場する一般的な物理量は、定番の記号が習慣的に決まっているため、標準から外れた記号の使用は混乱を招く(例えば t と書いてあれば、条件反射的に時間と思う)。自由に使える記号はそれほど多くない。

 

 

記号が足りなくなった時、漢字が使えたら良いが・・・と時々思う。平仮名も筆記体として、面白いかもしれない。

「中」など、ギリシャ文字の Φ に似ているので、使えそうな気がする。事実、江戸時代に関孝和は甲、乙、丙・・・などの漢字で未知数を表し、代数学を発展させていた。

 

が、物理学は国際社会の共有物なので、そうも行かない。

 

 

右肩にダッシュを付けると、使用できる記号を増やせる。

x', y',z'・・・x",y",z" ・・・という具合である。

ダッシュは、3つまでは、付けることがしばしばある。

さすがに4つはあまりやらない。

 

 

計算が合わなかった日

 

ある夏の日、計算をしている途中で、辻褄が合わなくなった。この日は、ダッシュを3つまで使っていたが、どうしても、ある記号のダッシュが、どこかで一つ多くなったように思える。どこでそうなったのか、わからない。それとも、どこか考え方が間違っているのであろうか?

 

 

紙面から目を離し、腕を組んで天井を見上げた。

書いたものを見ていると、思考が限定されて、間違いに気づかないことが多い。自分が書いたものに自分が束縛され、堂々巡りになる。そういう場合、多くの物理屋は歩き回るが、あいにく、私に割り当てられたオフィスは狭かった。

 

かなり時間が経ってから、紙面に目を戻し、もう一度最初から、計算を目で追った。すると、先程までダッシュの数が多いと思っていた個所が、問題ない数になっている!

 

いったい私は、何をやっていたのか・・・!?

 

 

唖然として目を擦り、紙面を凝視すると、ダッシュと丁度同じくらいの、非常に小さな黒い虫が、消しゴムのカスの中から這い出して来た。紙を揺らすと、ピタリと動きをとめる。

 

こいつか・・・

 

目で見てもなかなか虫と認識できない、点のような小さな存在に、そのとき初めて気が付いた。虫は大体、急に大量発生するものであるが、良く見ると、その日は机の上のあちこちに、かなりの数の点がある。砂ぼこりに見えていたが、そうではなかった。

 

時間を無駄にした悔しさに、「くそ」と呟きながら、消しゴムのカスとともに虫を払いのけた。すると虫は手に触れ、簡単に潰れてしまった。これには再び驚いた。小バエのように、飛んで逃げると思ったのである。これほど動きが鈍いとは思わなかった。真っ黒な体液がインクのように紙に染み、今度は本当にダッシュを印字したようになった。

 

それ以来、私は消しゴムのカスを払いのけるとき、手を使わず、息で吹き飛ばすようにした。私の父は寺の生まれで(自身は仏門に入らなかったが)、私は子供の頃から殺生を戒められていた。もちろん、知らないうちにダッシュが印字されても困る。

 

 

虫のサイズと動き

 

私はその時に、はじめて、夕方に自転車に乗るときに悩まされていた虫の集団の正体がわかった。

眼鏡をかけ、口をしっかり閉じていないと、目にも口にも入ってくる。鼻の穴に入りかけた場合は、すかさず「フン」と鼻息で飛ばしながら、自転車を漕ぐ。鳥なら、口を開けて飛んでいれば、自然に食料が口の中に入って来るであろう。

 

これほど小さい虫は見たことがなかった。小バエよりさらに小さい。蚊の集団のようでもあるが、飛んでいるというより、霞みのように空中に浮遊している。一匹ずつは識別できず、羽音も聞こえない。

 

  

昆虫は、温暖地域ほどサイズが大きくなり、種類が豊富になる。ゴキブリなど、英国人が見れば、驚きは大きいであろう。アメリカでは普通に見られるので、知っている人は多いと思うが・・・

 

英国人ではないが、ヨーロッパ大陸からの友人が私の研究室に滞在していた時、アブラゼミが低空飛行で彼の方に飛んできたことがあった。この時の彼の慌てぶりは、相当なものだった。超大型のスズメバチの類が襲ってきたと思ったらしい。

 

ちなみに、辞書によると、bee = ハチ であるが、bee は蜜蜂のことであり、それ以外はまとめてwaspと呼ばれる。waspには「ぶよ」のような比較的無害のものから、危険度の高いものまで幅があるが、大声で鳴き、高速で飛行するセミをwaspと思えば、慌てるのは当然である。

 

実はヨーロッパの夏場の気温は、大陸ではかなり高いので、大陸の虫はそれほど小さくない。夏に車で郊外道路を走行すると、フロントガラスに虫が次々に激突し、瞬時に潰れる。頻繁にワイパーを作動させて掃除しないと、前方が見えなくなるので、クリーナーの液がすぐ空になる。日本でも地方では、晩夏から初秋の短い期間、同じようなことがあるが、アルプス地方では、フロントガラスに激突する虫は、むしろ日本より大きく、数もずっと多い。殺生どころか、大量殺戮であるが、これはどうにもならない。

 

 

一方、ブリテン島の気温は低く、夏場でもコートが必要な日がある。英国の虫は大陸よりずっと小さい。

そして、英国の虫は動きが遅い。これも気温のせいであろう。虫と言えば、のろのろと動くイメージがあり、セミのように高速で飛行したり、ゴキブリのように素早く移動する虫を見た記憶がない。最も動きの速いのはハエであったが、これも日本のハエに比べるとかなり遅かった。

 

 

血を吸うハエと血を吸わない蚊

 

所変われば  品変わる  ・・・  虫も変わる ・・・

 

私の住んでいた地方のハエは「吸血バエ」であった。これには驚いた。サイズ的には(小バエは別として)日本の最も小さいハエと同程度で、姿かたちも、ハエそのものである。主に家畜の血を吸っていると思われるが、私もよく吸われた。潰れると、赤い液が漏れる。それ以外の種類のハエは見かけなかった。

 

一方、蚊に血を吸われた記憶は一度もないので、蚊は吸血ではなかったと思われる。時々は私の腕にも止まったが、放置して観察しても、結局何もせず飛び去るので、腕に止まる目的は不明である。見たところは日本の蚊と非常に良く似ており、地元の人々もモスキートと言っていた。

 

 

なお、私は日本でもあまり蚊に食われないので、英国の蚊が私の血を嫌った、という可能性は、無いことは無い。特にオトメと一緒にいると、彼女は何か所も食われるが、私は全く無傷の場合が多い。

 

 

文字通り、私は虫が好かない奴なのである。

回り道をした人々4

博識のH.B. 教授

 

H.B.教授とは、「タテの教育とヨコの教育」や「ある転職」に登場したスイスのB教授のことである。また「スイスの鉄道網」でも紹介した。彼もまた、回り道をした人々の一人であった。

 

彼は非常な紳士であった。客人に対する気配りは相当なもので、他の街に用事があるときには、私を誘い、時間をとって案内し、週末に夕食に招待するなど、厚いもてなしを受けた。私より10歳年長であったが、音楽に趣味があり、奥さんがピアノ教師であることなど共通点が多く、私たちは良い友人になった。

 

そして、彼に関して驚いたのは、並外れた博識である。

教会のパイプオルガンの奏者であり、様々なジャンルの音楽作品に詳しい。言語は母国語であるドイツ語の他、英語は勿論のこと、完璧なフランス語と、ロシア語もほぼ身に付けていた。

 

音楽を趣味とする人が、多くの作品を知っているのは当然である。またスイスは小国ながら、独仏伊の3言語の地域に分かれているので、ロシア語を除けば、3ヶ国語を話すのは通常の範囲と言える。

 

しかし彼はそれ以外にも、様々な分野で驚くほど博学であった。例えば殆どの植物について、名前はもちろん、それぞれの特徴を熟知している。植物園のガイドもできるほどである。また歴史の知識も非常に豊富だった。旅先では色々な場所の歴史的由来を、ローマ時代に遡って解説してくれた。その知識の確かさと広さは、並みの旅行ガイドをはるかに凌いでいる。これは、通常のヨーロッパ人と大きくかけ離れていた。

 

 

H.B. 教授の前職

 

以前の記事で、H.B.教授と共に行動すると、必ずといって良いほど、彼は色々な人に声をかけられると書いた。

 

ある日、彼は例によって乗換駅で、買い物籠を下げた中年の婦人と、親しげに立ち話をした。乗り換えの列車が到着し、御婦人と別れてから、「あなたは各地に知り合いが多いですね」と言うと、自分はかつて小学校の教師をしていたので、各地に散らばっている教え子がいるのだ、と明かした。

 

 

話を聞くと、彼の勤めていた学校は、日本の過疎地域の分校のようなものであった。そして、日本の小学校と中学校を合わせたような年齢をカバーしていた。1年生から10年生までと聞いたと思う。それでも生徒数は合わせて30人程度で、教員は2人のみ、それぞれ半数ずつ、全学年の生徒を教えていたという。この形態は、人口分散の進んだスイスでは珍しくないようである。

 

どのようにすれば、そのようなことが可能になるのか・・・?

それぞれの教員が担当する生徒は、自習室と教室の2つに分かれる。教室で黒板を前に、数名ずつグループに分けて指導する。指導を終えると、課題を与えて自習室に向かわせ、次の数名と交代する。これを繰り返す。

それぞれの教員が受け持つ生徒は、グループ分けに無理が生じないように、年齢や学習進度を考慮して、2人で協議して決める。翌年はまた編成を変える。協議に時間を要する年もあるが、あまり問題なく決められるそうである。

 

年齢の若干異なる子供たちが同じグループに属することを許容する。教える順序や内容の判断は現場に任され、年齢で一律に規定しないのであろう。そして、自分が受け持つ生徒に対しては、すべての科目を一人で教えなければならない。ただ、運動が苦手な彼は、体育だけは全生徒を同僚に任せ、かわりに音楽と美術を全生徒、受け持っていた。

 

個々の教員の力量を信頼した、柔軟なシステムである。適任の教師がこのように指導するのであれば、理想的と言える。これだけ多様な子供たちを相手にすれば、勉強を進めるだけでも様々な困難が生ずるとは思うが、これらを適切にマネージできる教員を養成することは、大変なことである。

 

スイスの教員養成、とくに初等教育の教員養成は、高校を卒業した後、4年制の特別な教育機関で行われる。これは大学ではなく、教員養成に特化した専門学校である。

日本では、大学で教職単位を幾つか取り、2週間程度の教育実習を受ければ、簡単に中高の教員免許が与えられるが(したがって私の教え子にも中高の教員が多いが)、スイスでは、初等教育の教員は特別な専門職である。資格を得るには、長期間の実習の経験を含めた、高度な職業訓練を受けなければならない。

 

彼の博識の謎はこれで解けたが、彼の歩んだその後の道筋を知り、また驚いた。

 

 

転身を可能にしたもの

 

H.B.教授は若い時、あまりにも多くのことに興味を持ち、自分の進む道を絞れず、様々なことを勉強する教員が向いていると考えたそうである。

 

 教員養成校を卒業し、3年の教員生活を経た後、彼は物理学を志すことを決意し、大学に入学した。そして4年間の学部を卒業して博士課程に進み、5年後に博士号を取得した。

つまり、彼が博士号を取得したのは34歳である。そして彼は、36歳で教授に就任した。

 

これは、日本では絶対に不可能である。

 

彼は一発仕事で特大ホームランを放ち、それで一躍、有名になったのか?

それなら可能性はあるが、そうではない。彼の仕事は堅実で、どちらかと言えば地味である。誰でもできる類の仕事、と言っても良いくらいである。

では、ものすごいパワーで、人の何倍ものペースで論文を書いたのか?

それも違う。論文の数は、少なくはなかったと思うが、それまでの短い研究歴に相応の範囲で、驚くような数ではない。

 

それなりの数があったのは、実験家との共著が多かったからであろう。これは、彼の生涯にわたっていた(過去形で書いたが、彼は退職後10年以上が経過した現在でも、活発に活動を続けている!)。もちろん、彼らと一緒に実験室で立ち働いた訳ではない。しかし、実験的研究を進めるために、重要な貢献をしていた。彼の教授就任は、数において物理屋の8割を占める実験家が、強く支持したからである。

 

実験家は、理論家の意見を求めて測定を追加したり、データの整理・解析で世話になることがよくある。このような交流から、データの解釈が理論的な説明のレベルに発展することもあり、そのような場合は共同研究として論文が発表される。彼の場合はこれが非常に多かった。

 

通常は、理論家と実験家の間の距離は大きく、このような共同研究は、決して多くない。よくある共同研究は、実験データの解析が、一定の理論的背景と高度なコンピュータ・プログラミングを必要とする場合である。しかしH.B.教授は古い世代の理論家で、プログラミングが全くできなかった。

 

コーヒータイムのアドバイス目から鱗が落ちた、という程度の貢献の場合は、普通は論文の最後に謝辞を述べる程度である。最終著者として論文に名前を連ねることをオファーされる場合もあるが、多くの理論家は、これを辞退する。したがって彼は常に実験と、より緊密な関わり方をしていたのである。

 

ちなみに日本では、自分の組んだプログラムを実験グループに貸し出し、共著者に加わる、という手で業績を水増しする人が、若手に時々いる。これが過ぎると、「他人のふんどしで相撲を取る者」のレッテルを貼られ、キャリアに響く。

 

 

 

謎の能力 

 

優れた理論家に見られるような、先進的なアイデア、驚異的な計算力や洗練された手法、といったものも、彼は持ち合わせなかった。

 

その一方で、基本的な理解は非常に確かであり、見通しと判断力に優れ、バランスの良い研究の進め方が出来る人であった。どのような問題のときに、どのようなアプローチが必要かが、すぐにわかる。まずは最も簡単な方法で、ざっくりと粗い結果を導き、実験データの解釈を行う。これは実験家にとって、大変に助かる。問題によっては、それ以上の高度な扱いを要さず、理論としてもそれで完了してしまう場合がある。そして彼は、結果の妥当性を見分け、軌道を修正する際の判断が的確であった。

 

本格的な理論の論文は、数学的に高度になり、込み入ったやり方をするが、それらを読むとき、彼は私が必ずやるような計算のフォローは、殆どしていなかった。自分が研究を進める場合でも、そのような計算は研究員や共同研究者に任せ、自分ではあまり立ち入らない。もちろん、やれば出来ないわけではないので、検討が必要なときには付き合う。

 

詳細に学んだ理論は博士論文のテーマのみである、と言っていたが、彼は詳細に立ち入らずに、理論・実験を問わず、様々な分野の人と共同研究ができる人であった。実際に私も、彼との共同研究、ディスカッションで、相当に鍛えられ、研究が大きく進んだ。

 

これは引退に近づいた大御所のプレイスタイルである。若い人が真似して出来るものではない。それを彼は、駆出しの研究者の時代からやっていたのだ。そして教室のあらゆる人々が、社交的で興味の範囲が広い彼から、研究上の恩恵を受けていた。そして他大学の人々は、しばしば彼の「引き抜き」を目論んだ。

 

 

 横に知識を広げる教育を批判しながらも、彼の正体は、恐るべき横型人間であった。

  

・・・いや、もしかしたら・・・全く逆かもしれない。

彼は究極の縦型人間であり、興味の向くままに横に足を延ばし、上を見上げれば、縦方向にはいくらでも見通せるだけの力を、密かに養っていたのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

2018年5月29日

 

 

 

ひと口笑い話: 諺を良く考えよう7

 

    「人のふり見て我がふり直せ」

 

  〇   解釈1:人の悪いところを見て、自分の悪いところを直しましょう

   解釈2:人の良いところを見て、見倣いましょう

 

     注: 笑い、ときどき真面目

 

回り道をした人々3

 第2回に書いたN君のように、社会人の間に資金を貯め、なおかつ、在学中もアルバイトをしながら卒業して行った学生が、他にも何人か記憶に残る。

  

 

夕刻のやや遅い時間であった。私と妻は、家から少し遠いところに、まだ営業しているスーパーを探し、翌日のための買い物を済ませようとしていた。そのとき、レジを務めていた、痩せた色白の若い男性が、私の後姿を見るなり、顔をみるみる紅潮させ始めたことに、妻が気付いた。言われてそれとなく目を遣ると、男性はくるりと背を向け、目の届かない場所へ移動した。

 

T君であった。目立たない学生であったが、名前と顔が一致できたのは、比較的珍しい苗字のためである。私の必修単位をなかなか取れず、授業でもあまり見かけなくなっていた。その時は休学中であったかもしれない。

 

 

 

接点が無かったT君

  

T君は高校を卒業した後、社会人を経験してから入学してきたが、単位の取得状況が思わしくなく、卒業は遅れることが予想された。

私は、彼にとって大学進学は意味があったのかと、やや訝っていた。

職を辞して進学し、在学年数を数年もオーバーすれば、支払う学費と在学中の家賃、失う賃金などの合計は、恐らく2000万円を超える。地方都市では、家一軒にも相当する金額である。卒業しても、それだけのメリットが生まれるだろうか・・・?

 

私が担当する必修科目では、レポートが毎週課されている。T君は提出できない週が多く、何週分かまとめて提出するが、必須問題の多くが未解答であったので、添削指導できる余地がほとんどなかった。私は、不真面目な学生ではないものの、あまり勉学に熱心ではない、という印象を持っていた。

良く覚えていないが、必修以外の私の選択科目は、履修していなかったように思う。また、常に一人で行動しているため、他の学生が彼について語ることはなく、N君のように、個人的に話をする機会もなかった。要するに、私とは全く接点が無かったのである。

 

休学を挟みながら、かなりの年数が経過し、ほぼ忘れていた頃、教授会で配布された卒業予定者名簿の中に、彼の名前を見つけ、学籍が失われていなかったことを知った。

 

 

再会の日

 

月日はさらに流れ、 私の退職の日が近づいてきた。そして遂に、最終講義の日を迎えた。

 

拍手に送られて講義を終え、正装のまま花束を手に、研究室へ戻ったところへ、同僚の教授が40歳前後の男性を連れてきた。

 

 「タローさんは、覚えておられないと思いますが・・・彼はT君と言って、

  10数年前に、ここを卒業した学生です」

 

私は見違えるようになった、長身の男性を見上げた。私の記憶にあるT君は、青白く、病み上がりのような印象であったが、目の前の男性は、今は眼鏡をかけ、相変わらず細身であるが、社会人らしい律義さと精悍さに満ちていた。これほどの長身とは思っていなかった。

 

同僚は続けた。

 

 「それから7年後に、彼は放送大学の大学院に社会人入学して、タローさん

  には話していませんでしたが、私が御世話して、修士号をとりました。」

 

 「それで今は、うちの学科ではないのですが、電子の〇〇先生の研究室に、

  博士課程の社会人学生として在籍しています。研究内容は電子と言うより、

       どちらかというと情報系になりますが・・・  もうじき博士論文が提出

  できる見込みで、IT関係の企業に就職が内定しています」

 

 

 T君が口を開いた。手に菓子折りを持ち、私に頭を下げて

 

 「博士論文が決まったら、先生に御挨拶しようと、ずっと思っていたの

  ですが、今年で先生が退職されることを、今日初めて知りまして・・」

 

 「先生は退職されたら東京に行かれると伺ったので、これが最後の機会かと

  思って、慌てて・・・ こんなものしか用意できませんでしたが、先生の

  お好きな御菓子と伺ったので・・・」

 

 

彼がこんなに近くにいたとは、思いもよらなかった。階の異なる他学科であり、また社会人学生なので、すれ違う機会もほとんど無かったが・・・

たとえすれ違っても、私は分からなかったであろう。

 

私が言葉を見い出せずにいると、

 

 「浦島先生のレポートの問題・・・いつも提出が追い付かず、単位をとる

  のに時間がかかってしまいましたが、先生が示される水準まで出来ていな

  ければ、先へ行ってはいけないということは、自分でも良く解りました」

 

 「それで・・・また時間がかかってしまいましたが、どこまでやらなければ

  いけないかを、いつも考えながら、次を勉強してきました・・・

  あの授業がなければ、それが分からず、続けられなかったと思います」

 

と、もう一度、深々と頭を下げた。

 

 

彼は今や、顔を赤らめた、あの内気な青年ではなかった。博士号をほぼ手中にし、良い就職も内定して、自分のやってきたことに手応えを感じつつ、迷いなく自分の道を歩んでいる。

 

いや、恐らく、私の知る学生時代から、迷いはなかったのであろう。働きながらの就学は厳しい。私は、正当に彼を評価していなかった自分を恥じた。

 

 

存在していた接点

 

彼の最後の言葉に、すべてが語られていた。

 

困難な道を進むためには、「どこまでやって次に行くか」という線を、自分で判断できることが重要である。

それには経験を積み、自分を客観視する謙虚さと、前に進む勇気との間の、バランス感覚を育てなければならない。多くの人は、最初のうち前者が足りないのである。彼は私のレポート評価を指導と受け止め、その線が見えるまで努力した。そして勇気を失わず、着実に先に進む事が出来た。

 

在学中は接点が見えず、私は彼の人生において、何らかの助けになっている、という感覚を持てなかった。しかし接点は存在していた。彼はそれを大切にしていた。

彼の言葉は、退職する私には、最大のはなむけであった。

 

 

進学は正しい選択だった。

 

古い世代の老婆心から私は案じたが、時代は大きく変わり、今は安定した職ではなく、安定して働ける力が重要となっている。

 

そして彼は、生涯働ける力を身につけた。

 

 

 

 

回り道をした人々2

若い人々は、かつてのように、人生を急がなくなったのかもしれない。

 

大学へ入学する人々の年齢が、昔に比べると高くなってきた。

高校を卒業し、社会人を何年か経験してから入学する者、他大学から進路変更して転入してくる者、高校を中退し、大検を経て入学した者・・・

 

雇用が流動化し始めたことや、定年の延長、年金制度の崩壊など、様々な要因から、腰を据えて人生に立ち向かう人々が出始めた感がある。

 

年齢の高い学生は、概して精神年齢も高く、非常に教えやすかった。とくに、社会人の間に勉学資金を蓄えてやってきた人々は、モーティベーションが高い。

そして、予備校などには行かず、独学で入学試験に合格している。大学教育には、むしろ余計な小技を受験勉強で身に付けていない人々の方が、すんなり順応できる。

 

 

N君の話

  

記憶が正しければ、私が教えた中で最も年齢の高かった学部学生は、入学時に42歳だったN君である。

 

彼の仕事は「とび職」であった。私の研究室は、新しい12階建の棟にあったが、「この建物はオレがやったよ」と言っていた。

 

高校の卒業証書は手にしたが、祖父の営む土建業の手伝いばかりで、何も勉強はしておらず、「1/3も出席しなかった」そうである。

 

若い時、家族を持っていたが、妻子と別れ、自由な独り身になってから、ある日古本屋で、最も安い参考書や問題集を買い、自分で勉強を始めた。

 

  「オレの本はどれも、105円だよ、消費税込みで」

 

  「金が無いから一番安い本を買ったんだけど、それが一番良かった。結局。 

   詳しく書いてあるし、問題も難しい。こういうのは、誰も買わないから安い」

 

  「皆が欲しがる薄っぺらい本は、高いだけで、読んでも絶対解らないよ・・・」

 

完全にゼロからのスタートであったので、最初のうちは、勉強していると吐き気がしたという。「男は外で働け」が口癖の祖父に育てられ、子供のころから文字をほとんど読まない生活を送っていた。文章を読むのに時間がかかり、辛かったそうだ。だが、計算は全く辛くない、と言っていた。

 

N君は他学科(電子系)の学生であったが、1年生の教養科目を皮切りに、私が担当する5科目の物理の専門科目をすべて履修した。私の授業内容を完全に理解した学生の一人である。

物理系の基本科目はすべて履修したかったが、自分と同じ年齢のMという教官に妨害された、と言っていた。1科目を履修した後、理不尽な理由でその後の履修登録を拒否された、というのである。どうやら、最初に履修した授業で、説明の間違いをN君が指摘したのが原因のようである。M氏の授業には内容的に問題が多いことを、私も承知していたが、これには少し驚いた。

その授業では、「オレが教えてやった奴らはみんなSかAで、オレだけCだった」ので、試験の採点結果を見せるように要求したところ、文字の書き間違いなど、内容に全く関係ないところで、大きく減点され、「これを間違えるということは、何も解っていないということだ」と言われたそうだ。

 

物理の女子学生から「おじさま」と呼ばれ、彼女たちのレポートを助けていた。ただし私の指示を守り、解答を教えるのでなく、私の与えるヒントの生かし方をアドバイスしてくれていたので、私は大いに助かった。その年は私が在職する最後の年であったが、女子の学力は、在職中の最高を記録した。

 

私はレポート課題に、少数ではあるが、真のアカデミック・マインドを必要とする問題を含めていた。研究者になりたい、という学生がいた場合、まずこれらに独力で挑むことを勧める。N君はヒントなしには無理であったが、彼の計算力は、添削指導を始めてから1年で、私の学生時代と変わらないレベルに達し、問題の意図や目的を完全に理解していた。彼は、研究者向きの人間であった。

 

成績優秀のため、彼は2年次以降、授業料を全額免除されていたが、貯金が底をついたので、卒業後は働くと述べていた。すでに働きながらであり、「卒業研究に入ったら、週2回しか来れないので、その条件で指導してくれる研究室を探している」と言っていた。

「大学院には行かないので、卒研で修士と同じレベルのテーマをやらせてくれるところ」とも付け加えた。私の退職後に卒業研究のファイルを送ってくれたが、確かに修士のレベルであった。

 

 

とび職に戻るのか、と尋ねると「そっちの仕事は、もうやらない」と答えた。

すでに亡くなった祖父の工務店は閉めていた。あちこちの会社に、請け負った工事費を踏み倒され、数千万円以上の被害に遭っていた。

 

訴えるところはないのか、と聞くと、ややいきり立って、

 

  「オレ達は食わなきゃならねえから・・・そんなことやってる時間はないんだ。

   オレ達より大きな会社の、大学出た奴らは、こっちが何も出来ないことが解っ

   てるから、踏み倒すんだよ」

 

そう言ってから、

 

  「まあ、Mみたいな奴が、いっぱい居るっていうことだよ・・・ああ、だから

   オレは、あいつには、別に驚かなかったよ。始めて顔を合わせたときに、

   どういう奴かすぐに分かったから。大学にもいるんだな・・・」

 

  「世の中、そんなことだらけだから、オレはいちいち気にしない。けど、オレ

   みたいな目に遭っている人間は沢山いるから、オレ達の世界では、何も出来

   ない能無しの大卒を見つけると、よってたかって苛めて、潰すんだ・・・

   苛められて追い出されて、もう行く所がなくなる。そこまでやられるよ」

 

・・・と、恐ろしいことを言った。

 

  「浦島先生の授業から逃げる奴らは、世の中のことを知らないから、逃げ

   るんだな。あれじゃ必ず潰されるよ。 ニワトリと同じだからな・・・

   丸覚えで試験受けて、終わって3歩あるいたら、全部忘れてる・・・」

 

 

彼は大学院の修士まで進めば、科学計算を専門とする会社で十分にやって行ける。年齢にとらわれず、これから30年働ける会社もある。就職の世話をしても良い、と水を向けると、「自分は爺さんと同じで、体を使って働く人間なので、机の前に座りっぱなしは性に合わない」と述べた。 

では、勉強は辛かったか、と尋ねると、「物凄く大変だった。大変だったけど、1人でレポートの問題を考えている時、こんな楽しい時間は無かった」と答えた。

 

彼はボイラー士の上級資格を取り、見張っているだけで十分な収入を得られる職に就ける予定だそうである。合格者が殆ど出ない、年に一度の資格試験だが、大学の物理の勉強に比べたら何でもない、と笑っていた。彼は、自分の学科の定期試験は、ほとんど常に満点だったのである。

見張ると言っても、ずっと目を光らせている必要はないので、勤務中に好きな勉強ができる。前からやりたかった生物物理の勉強を始めている、とのことであった。そこで私の授業で学んだ知識が役に立っているそうである。

 

  「オレ一人、食えればいいんだ。老後は必要ない。体が動く間は働いて、

   動けなくなった時に死ぬだけだ」

 

  「オレの親父もそうだったよ。死ぬ直前までマラソンしてた。しょっちゅう

   筋トレやっててさ、末期癌で痛いのを、筋肉痛だと思ってたな・・・」 

 

 

1年次の秋に、「馬鹿馬鹿しいから退学しよう」と思った。だが、授業料を払ってしまったので、最後の学期と思って履修した私の教養単位で、初めてモーティベーションが湧いたそうである。

修練を伴わない「お話し」を教養と見做さない私は、高校の復習を兼ねながら、ある程度体系的な力学の入門を行い、多少の添削指導も行っていた。 

 

N君の言葉には、時々、私もドキリとさせる辛辣さがあったが、彼の生きる覚悟は快かった。「教養の授業とは思えない、重たい授業だった」と言いながら、「はじめて、この大学に入った意味があったと思えた」と言ってくれたことが、嬉しかった。

  

 

N君を「回り道をした人々」に入れたのは、正しくなかった。

彼は、寄り道をしたのである。

そして寄り道で、人生を豊かにすることを知った。

 

2018年5月22日

ひと口笑い話: ミニ言語学19

 

     英語       日本語

         joke                           冗句

 

   注: 単なるジョークです。言語学ではありません。

 

ある転職

教授人事の日

 

以前の「タテの教育とヨコの教育」の記事で、スイスの大学で知ったヨーロッパの大学人事の内情を紹介した。その後、実際にこの大学で素粒子論の教授が退任し、それに伴って、新任の教授の選考が行われた。

 

この日のコーヒータイムは、人々が選考を終えた直後であった。 

この大学の研究員を長年務め、有力候補の一人だった43歳のスイス人が、数週間続く長い議論の末、最終候補から外されていた。彼は昼食には同席せず、やや重苦しい雰囲気が流れていた。 

その他に、この大学に狙いを定め、数か月、ゲストとして滞在していた、流暢なアメリカ英語を話すスウェーデン人も応募しており、最終候補に残っていた。アメリカ帰りとしては異例に、良いところまで行ったが、プレゼンの結果、人々はやはり教育に不安を感じたとのことであった。壁は厚かったようである。採用されたのは、34歳のチューリッヒの研究員であった。 

 

 

選考の基準

 

34歳と言うのは、日本では異例の若さであるが、この大学の教官はほとんど、30代の半ばで着任している。B教授も、36歳で着任していた。

スイスの大学では、正規スタッフは全員が教授で、准教授・講師などの職制上の階層構造が無い。ポスドクから突然、教授に抜擢されるので、着任時は若いのである。

そして30代の半ばを過ぎると、採用されるチャンスは急激に小さくなる。そこで研究者としての力量と将来性が、ほぼ明確に見えてくるからであろう。隣の数学教室でも教授人事が行われたが、決まったのは28歳の若者であった。さすがにこれは異例である。

 

候補から外れたスイス人は、かなりの業績を積んだ人で、ジュネーブにあるCERN(欧州原子核研究機構)のEU共同プロジェクトに、政府が送り込んだ一人であった。そして10年近く前に、他大学に教授として迎えられるチャンスがあった。

これを前任の教授が引き止めたのである。その時、教授の退任時に引き継いでもらう、という口約束があった。彼の故郷は車で30分ほどの村であり、彼はそこに生活の基盤があったので、これに応じた。

 

10年の歳月のうちに、教室のメンバーも入れ替えが進み、その約束は反故にされた。

経緯は周知の事実であった。業績は一流で、量・質ともに十分なものがあり、決して不適格な候補者ではなかった。

が、物理教室の発展のため、現在進行形で著しく進展している領域を専門とする若手が優先された。

  

 

若手が特定の有力な研究者との共同研究に、自分の研究人生をかけてしまうことは、大きな危険を伴う。優れた研究者でも、晩年は新しいテーマに手を出さなくなる。そのような長期の共同研究は、研究の質を高めることはできるが、知らず知らずのうちに、幅を狭くする。

自然科学は動きが激しいので、従来と同じ路線を継承することは、大学全体の研究活動の衰退を招く。そのため、どの大学も後任人事では新しい方向性を求める。このあたりのヨーロッパ人の判断は非常に厳しく、学問以外の私情を決して挟まない。

 

誰しも、私情が無い訳ではない。彼は大変親切な人で、人々から好感を持たれていた。そして、スイスでは43歳の者が、他大学で教授に採用されることが不可能であることも、誰もが解っていた。

彼はすべてのスタッフにアピールして回っていたが、彼が候補者から外れるであろうということは、B教授から少し前に、内々に予想を聞いていた。

本来は決してゲストに漏らすような話ではないが、教授たちは私が居合わせるとき、英語で話すことを礼儀としていたので、私も様々な会話の断片から、大体の様子は解ってきていた。とくに私は彼に色々と世話になっていたので、日常の接触への配慮として、事前にきちんと伝えた方が良いと判断したのであろう。

 

 

・・・そして転職

 

その後、間もなく良いニュースが届いた。彼は故郷の村の近くに新たに建設された先進医療の施設で、放射線治療の技術責任者の職に就いた。給与面での良い待遇と、時間的に余裕の持てる条件で契約し、引き続き大学で研究を続けられることになった。

 

再び彼をキャンパスで良く見かけ、頻度は減ったが、ティータイムでも顔を合わせるようになった。それまで担っていた授業担当や、スーパーコンピュータの維持・整備の重荷から解放され、大学にいる間は研究に専念できる。研究時間はそれほど大幅に減らなかった。

 

彼がこの職を得るために、スタッフたちは色々と支援した。とくに、有名な外科医を弟に持つ教授が、積極的に動いた結果であった。 その教授もB教授と同様に、私に彼の事情を個人的に伝えていたが、私情との葛藤に苦しんでいた。

 

他の国々であれば、転職と同時に研究を諦めるところであるが、その点、スイスは非常に柔軟である。高校の教員なども、大学の研究員とのかけ持ちが可能であるので、多くの研究者が教職に就いて研究を続ける。

 

日本であれば、高校の教員免許は勿論であるが、医療業務に従事するには、相応の資格が必要である。先進国はどこでも、このような資格には厳しい。

しかし、スイスはまた別の判断をする。とくに当時は、多種類の放射線や粒子線が医療現場で使われ始めた時期で、機器の運転・管理だけでなく、放射線の詳細な知識やオンライン化が、最も必要とされるところであった。

時節も良かった。ある物理学者が提唱した、3方向からのX線照射の回折データから立体画像を構成する計算方式が、医療現場で実用化された。これが巨額の医療ビジネスとなり、物理的先進医療への大きな流れを作っていた。そしてMRI(=核磁気共鳴断層撮影) など幾つもの新技術が、実用化目前であった。彼はこのような流れに、全般的に対応できると期待された。

 

そして彼に研究を継続させることは、これまでの国の教育投資を生かし、素粒子論におけるスイスの研究者人口の1パーセントを、失わずに済むのである。ヨーロッパで最も豊かな国と言われるスイスの強さの秘密は、一つにはこのような人材登用の柔軟性にある。

 

 

そしてまた、古巣の研究場所から離れず、様々な感情を切り離して研究人生を全うする選択をした強さも、さすがである。