浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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オトメの母の死

わたしの義母、つまりオトメの母が亡くなってから、10数年になる。

 

注射でb型肝炎を貰い受けた事に長いこと気付かず、それが元で腸に癌を発生した。それでも、ほぼ直前まで、元気に立ち働いていた。辛抱強い性格のため、周囲があまり気が付かなかったのかもしれない。ほぼ平均寿命であった。

 

控えめで辛抱強く、それでいて子供のように無邪気なこの母を、私は好きであった。

美術的な才能が豊かで、画家となった彼女の兄より、その先生は子供時代の彼女に興味を持っていたと伝えられている。そして非常な美人であった。密かに慕っていた御近所の独身老人も、多かったようである。

 

病院

最後に入院した病院は、廃校になった小学校の跡地に建てられたものである。母は子供時代、その小学校に通っていた。

 

最後を看取るため、オトメを含む子供たちとその家族が、数日前から病室に集まっていた。

交代で看病を努めていた際に、私と2人だけの短い時間があった。

私は小声で、オトメを生んでくれたことに感謝の気持ちを伝え、私とオトメは幸せな時間を過ごして来たと話した。苦しみを緩和する投薬のため、意識は混濁しているとの医師の説明であったが、母は私の言葉に目を開き、涙を浮かべて手を差し伸べた。

 

息を引き取ったのは、明け方近くであった。静かに眠る遺体を前に、子供たち3人は、交代に別れの言葉を述べた。最後にオトメが、

 

  「今まで色々と助けてくれてありがとう、これからは私達は、

   それぞれ自分達で何とかやっていくから、心配しないでね」

 

と話しかけた。沈黙の時間が続き、直接の親族ではなかったが、私も口を開いた。言葉が適切かはわからなかったが、人々に向けて、

 

  「お母さんは・・・本当に純真な、子供のような人でしたね・・・

   ここは、お母さんが通った小学校のあった場所だそうですけれど

   どんな子供時代だったのか・・・会って見たかったですね・・・」

 

と話した。

 

夜が明けて、遺体は葬儀社の車で搬出された。処置を施され、昼ごろに自宅に戻る予定であった。

真夏の、非常に暑い日であった。

自宅に戻った頃、すでに日は高く昇り、私達も疲れていた。私達は母の到着を待ちながら、それぞれ仮眠をとることにした。

そして・・・私は夢を見た・・・

 

教室

私は小学校の廊下に立っていた。

昭和初期のような、古い校舎である。

短い廊下の突き当たりに、4年3組の札が掛かった教室があり、子供たちの声が聞こえていた。丁度、授業時間が終わるころなのか、先生の声と子供たちの弾んだ声が入り混じる。

入り口の引き戸から子供たちが勢い良く飛び出してくることを予想し、少し待ったが、誰も出て来ないので、私は自分から引き戸を開けた。

 

意外な教室の造りであった。

廊下への出入り口と反対側に、大きな掃出し窓が校庭に向けて開かれている。子供たちはそこから、勢いよく飛び出して行った。

その中で、私を待っていたかのように、おかっぱ頭の少女が、私の方に笑顔を向けて手を振った。そして、他の子供たちと一緒に、校庭の隅へ向けて駆けて行った。

 

母であることは疑いなかった。

 

思わず少女の後を追い、校庭に出たが、子供たちは非常な速さで校庭の隅まで走り抜け、学校の外に出て行った。

 

人影の無くなった校庭の砂に、真夏の強い日差しが白々と反射し、眩しかった。

 

と、横を見ると、一本の木が木陰を作っており、そこにセーラー服姿の女学生が佇んでいた。そして私に向かって、恥ずかしそうにペコリと頭を下げた。

この人も母なのか・・・と思いつつ、私は会釈をしながら横を通り過ぎた。あまり顔を覗き込んではいけないような気がしていた。

 

数歩通り過ぎ、振り返ると、彼女の姿は無かった。

 

・・・そして、目が覚めた。

会いに来てくれた母に、つれない態度をとってしまったかもしれない・・・と後悔の念が残った。