浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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戦後教育の変遷5 ー 和をもって貴しとなす国の民主教育(中編)

 

 前回の記事から続く

 

平等主義の台頭

 

「和を以って貴しとなす」を実践することは、人々が不公平感を抱いていれば難しい。平等と感じられる社会であってこそ、「和」は達成目標と成り得る。

 

前回の記事で書いたように、戦後の民主教育は伝統的な和の精神との融合を目指していたように見える。そしてそのため、戦後の日本の社会では、民主と平等は切り離せない概念となった感がある。

 

しかし・・・

議論 → 対立 → 不和 ・・・の危険と隣り合わせのまま、議論により和を達成することは困難を極める。和の実現のために人々が求める平等が「結果の平等」になることは、避けられないのかもしれない。

しばしば「日本型共産主義」などと揶揄する人々がいるが。

 

かくして、結果の平等の思想は、教育の現場にも持ち込まれた。

高度成長の一時期、初等教育の現場では、運動会で子供たちに手をつないでゴールさせるなど、結果の平等を強調する姿勢が顕著になった。

 

手をつないでゴールする運動会は、長くは続かなかったが、教育の現場では、今でもこの考え方が根強く残っている可能性がある。 結果を平等にすることはできなくても、差を可視化させない、という考え方である。

 

 

蛙は井の中におれ!

 

時代は少し遡るが、私は高校卒業の2年後、母校のテニス部の合宿に、コーチ役として参加した。在校時代、私は部長を務めていた。

 

この学校は部分的な中高一貫教育で、半数が中学校からの持ち上がりである。この合宿も、中高合同で行われていた(私自身は高校からの入学である)。

スポーツに関しては自他ともに認める貧弱校であったが、その時、中学生の1人が、珍しく全国レベルに成長できる逸材と期待されており、顧問の先生(2人)は彼を高校生の部に組み入れて練習させることを考えていた。顧問の一人は、私が在学中にお世話になっていた若い先生である。もう一人は他校から転任してきた初老の先生で、私は初対面であった。

 

その後、顧問の先生たちは、この中学生の部員について、「彼は井の中の蛙で慢心しており、特別扱いは教育上好ましくない」として案を撤回した。

 

話によると、学校の部活動だけでは物足りず、コーチ付きの民間クラブの会員になり、指導を受けたい、と父親と共に申し出たそうである。

 

クラブの会費は、相当に高額であったと予想される。が、当然ながら学校の部に彼の欲するレベルの練習相手はいない。練習時間も、スポーツ入学の生徒を抱える強豪校のように毎日できるわけではない。2面しかないコートは、軟式テニス部との共同利用である。本人としては物足りず、親も本人を応援したかったのであろう。

 

顧問の教師は「他の部員と同じ条件で努力するように」と指導し、合宿での特別扱いも取りやめた、とのことであった。

 

 

私は口出しは控えたが、この指導には違和感を感じた。

 

彼が実際に慢心していたかは知らないが、仮にそうであれば、本人に思い知らせる方法は、一つしかない。井の中からつまみ出し、大海に放り出すのである。「お前はまだ大海を知らぬから、井の中におれ!」では、理屈が合わない。

 

理屈は合わないが、当時はこのような考え方をする人々が多かった(今でも時々見られる)。これには表向きの理由と別に、真の理由があるように思えるが、私には昔からよく理解できなかったことの1つである。

 

教育者の判断としては、やはり「差を可視化させない」ということであろうか?

「特別扱いは教育上好ましくない」というのは、本人ではなく他の生徒の・・・

 

それも、少し違う気がする。

他の生徒との関係で言えば、いじめに遭わないように、という親心はあったかもしれない。社会に出てからのことも考えて・・・

 

そもそも、いじめに遭う理由は何だろうか?

  

この生徒はその後退部した。おそらくクラブの会員になったと思われる。

 

 

貧しさの時代

 

この頃、教育界でしばしば叫ばれていたのが「教育の機会均等」という掛け声であった。思い出してみると、「他の人々と同じ条件で」という言葉は、お世話になった顧問の先生からも、在学中にしばしば聞いていた。思えば、違和感はすでに、この頃から感じていた。

 

管理によって一律に低い条件に合わせるのは、結果の平等を目指している訳ではないが、結果を平等にさせる方向である。より良い条件で努力することを封じるのであるから、差を可視化させない、というだけでは済まない。

 

今では文部科学省も、機会均等とは「意欲と可能性のあるものに積極的に機会を与える」ことを意味する、とたびたび明言しているが、

この点が強調されること自体、「与えないことで均等化を図る」という貧乏平等主義が存在していたことの証左であろう。

 

高度成長に乗ったとはいえ、この時代の日本は、まだあらゆる意味で、貧しかったのである。学校教員は、様々なことに気を配る必要があった。

 

このような気配りが、個人に対する行き過ぎた指導、集団に対する行き過ぎた管理教育に発展した側面はあったと思う。

 

そしてそこに、戦前教育の様々な名残が影響した可能性も否定できない。

 

(続く)