浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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ペラペラ喋るとトラブルを招く?(前編)

私が帰国した頃、日本では国をあげて「国際化」の掛け声が大きくなっていた。「国際〇〇大学」という名前の大学や、国際の文字を冠した学部・学科が次々と作られていた。内容は全く変わらずに、ただ名前を変えただけの場合も多かったが・・・
当然、英語熱も高まりを見せ、「日本人はどのようにして英語の会話能力を高めて行けばよいか」を外国人のゲストに問う、という企画の番組があった。
そのようなことを聞かれても、ゲストの方々も困ると思うのだが・・・その中に、「ネイティヴの人と同じようになろうと思わない方がよい、ペラペラと流暢にしゃべると、却ってトラブルを招きますよ」と忠告する人がいた。
「流暢に話せるようになるにはどうしたら良いか」をテーマとする番組だったため、司会者は大いに困っていた。
 
語学力に含まれるもの
この忠告の意味は、なかなか理解されないかもしれない。
言葉を身に付けるプロセスは、個人の人格形成の過程と切り離せない。これは、母国語の場合は当然であるが、第2の言葉として外国語を身に付ける場合にも、かなり当てはまる。
人は、異なる社会では、社会道徳も十分にわきまえていない子供に等しい。もちろん全面的にではないが、外国では、自分の成長過程を1からやり直す、くらいに構えておくことも必要と言える。
そして、ここが海外生活の厳しいところであるが、言葉が未熟でも大人であるので、自分の発言に責任を持たなければならない。このとき、それまでの「育ち」が大きく影響する。
どの国でも人々は外国人に対して、子供に接すると同様に、言葉の習熟度を考慮して人間性を判断する。例を挙げれば、日本でしばらく暮らした外国人が、世話になった人々に深々と頭を下げ、「大きな御世話でした」と言ったとしよう(実際にあった話であるが)。
このとき人々は、表情や態度から真意を察する。このような場合は、発する言葉そのものより、態度の誠実さが大切で、余計なパフォーマンスは、正しく評価されないリスクを伴う。
 
国際的な知識人の英語
実際に、国際社会で活躍してる非ネイティヴの人々の英語は、必ずしも流暢というわけではない。多少の訛りは誰にでも見られ、ところどころに語法的な誤りが含まれる場合も珍しくない。例えば、日本人なら誰も間違えない be interested in ~ を be interested with ~ などと言ってしまう人は多い。
しかしながら英国滞在中に、インタビュー番組などで、一流と言われる知識人や芸術家などの話を聞き、いつも感心していたことは、受け答えの的確さである。単純にして真実を突き、したがって常に分かりやすい。たとえ言い回しに誤りが含まれていても適切さがある。
そのまま文章にして出版できるような、しっかりした表現が共通する特徴で、くだけた話し方をする人は殆どいない。そのため、私には非常に参考になった。
表現に誤りが含まれていても、番組は通常、そのままの言葉を放送で流す。意味が伝わらない心配は無いのだろう。それも報道側の敬意の現れと感じられた。
日本で活動している外国籍の人々にも、同様の例が多く見受けられる。このような人々は、討論会の司会などを任されても、普通の日本人と同様に(多くはそれ以上に)的確にこなすことができる。それは語学力というより、専門分野の力量、そこで磨かれた人間力や視野の広さであり、それを知る人々の信頼と敬意が可能にしているものだろう。
ちなみに、くだけた話し方というのは、どうしても本質から離れた余計な情報や雑味が加わりやすい。そのため、話が分かりにくくなる傾向がある。また同時に、育ちの悪さが出やすいところでもあるので要注意である。くだけた話し方ができる語学力のレベルに達してきた時に、トラブルが発生しやすくなる。ゲストはそれを注意したのだ。
冗談なども、日本人の冗談はかなり「きつ目」で、人々の気分を損ねる危険性が高い。とくに「日本語の冗談の英訳」は避けた方が無難と思われる。
笑いは文化的な土壌に強く依存するので、「笑いに国境はない」とはいかない。