浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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ペラペラ喋るとトラブルを招く?(後編)

トラブルに巻き込まれた体験ではないが・・・私の思い出話である。
 
そのままでは教壇に立てない
英国の大学に研究員として採用されてから、少しずつ英語の生活に慣れはじめてきた時期だった。その頃、日本の大学は物理学、とりわけ理論分野の過飽和状態が続いており、私は海外でキャリアを築く道を考えはじめていた。そしてそのためには、軽妙なユーモア程度はこなせるレベルの、社会に溶け込める英語力が必要と考えていた。
つまり、前編の記事で紹介したゲストの忠告には背く方向である。当時私は、なるべくネイティヴに近づく努力が必要と思っていた。
その頃、カナダの大学の教授が、私の勤める物理教室に、ゲストとして2か月ほど滞在した。私はこの先生と親しくなり、ある日、自分の英語が北米の研究機関で仕事を得るのに十分であるかを、率直に尋ねた。
彼は私の質問に率直に応じ、「そのままでは北米大陸で教壇に立つことは難しい」と厳しい判定を下した。「私は君の言葉を補いながら聞くことができるが、専門知識の乏しい学生では、聞き取れない部分が多く難しいだろう」とのことだった。
私はややショックを受け、詳しく問題点を尋ねると、語彙は十分であり、言葉の構成にも問題はないが、発音、とくに子音の発音に問題がある(弱すぎる)、と指摘された。私は(日本の学校教育にしたがって)母音の発音には気を使っていたが、このとき初めて、子音の方がずっと重要であることを知った。
彼は英国出身で、典型的なブリティッシュ・イングリッシュだったが、このとき一つだけ、会話の中で私が口にした clothes [klouðz] の発音を例にとり、正しい発音を丁寧に教えてくれた。
これは私にとって、高校生の頃から不思議な単語だった。今のようにネットで検索すれば、すぐに音を確かめられるという時代ではない。発音記号を見ても、良く似た子音が連続することを理解できず、自己流に母音を足して [klouðiz] とやっていた。それも「ð」の音が不正確で、ほとんど [klouziz] になっていた・・・
正しくは、[klou] まで発音した後、舌の先を前歯で軽く噛み、「ð」の音を出す。このとき、音が弱くならないように息をしっかり継続し、そこから、舌を少しずつ引っ込め、最後は「z」の音に持って行く。cloth の複数形の cloths [klouθs]も、濁音を清音に変えるだけで、同じようにする。
「うん、そうだ、それで良い!」と言われても、私は自分で発している音にもかかわらず、自分の耳で「ð」と「z」、「θ」と「s」の区別がほとんど出来なかった。この程度の音の差で区別するとは・・・
後でこの練習を自分で何度も繰り返し、私は舌の感覚を殆ど失った。この時は本当に、「英国の食事の不味さはこの発音によって舌をダメにしたからだ」という大陸ヨーロッパ人の説は、全く正しいと感じた。
考えてみると、日本語の「行かない?」と「行かない」や、「ううん」と「うん」などの区別も、外国人にとっては超絶難解であろう。
私はネイティヴに近づく難しさを実感すると同時に、私がしばしば人々に聞き返されるのに対して、呆れるほど滅茶苦茶な英語を話す留学生が、なぜ一度で通じるのか、ようやく理解した。彼らは語順も前置詞も、単数も複数も、時制すらも出鱈目であるが、子音はしっかりしていたのだ。
 
本当は君の英語の方が・・・
それから10数年の歳月が流れ、私は日本で教授職を得てから、彼の研究室にゲストとして長期滞在する機会を得た。海外での職探しはもう必要なくなっていたが、私はその時までに、英国でも授業を担当して経験を積み、自分なりにも発音を改善してきたつもりだったので、再び診断してもらうと、
 「 発音? そう言えば君は昔、 [klouziz] ・・・なんて言ってたな(笑)。
  今は別に問題ないよ。私と毎日、普通に話しているじゃないか 」
と言われ、多少は苦労した甲斐があったのか・・・と、少し安心した。が、続けて
 「発音以外では? たぶん、表現上の間違いも色々あると思いますが・・・」
と尋ねると、少し困った顔をして、
 「 うん・・・時々、私たちの英語とは少し違う表現があるんだが・・・
  後で良く考えて見ると、そういう時はいつも、君の喋っている英語の方が
  正しいんだな・・・私たちの方が、いいかげんな言い方なんだ・・・ 」
安堵したのも束の間、私は冷汗をかき始めた。これはきっと・・・「大きな御世話でした」は良く考えれば、正しいお礼の言葉である・・・などということを言っているのではないか?そういうことを、私は今まで頻繁にやっていたのか・・・
今後の改善のために、ぜひ 2,3例を教えて欲しい・・・これまでにどのような表現があったのか?と尋ねると、彼は驚いたことに、
 「改善? いや、変える必要はないよ・・・正しい言い方だから・・・
  というより、変えない方がいいよ。それは君らしい表現だから・・・
  断言するけれど、間違いなくそれで通じるから・・・
  君が話すのを聞いて、微笑む人はいても、怒る人や笑う人はいないから・・・
  さっきから言っているように、本当は君の英語の方が正しいんだから・・・ 」
と、頑なに答えを拒み、1つの例すら示してくれない。私は「微笑まれては困る・・・」と内心、焦るものの、それ以上の言葉はどうしても、彼から引き出せなかった。
 
異邦人の心得
彼の言っていたことは、前回の記事の冒頭に紹介した番組のゲストと同じなのだろう。外国人が過度に会話能力を追求すると、必ずしも良い結果にならない・・・
確かに、巧みな会話術というのは、母国語においてすら、少し方向を誤ると「育ち」を疑わせ、信頼感を損なう危険性がある。
外国人であればこそ、可愛げのある間違い、あるいは、その人なりの気遣いや礼節の表れとして、人々に受け入れられる表現もあるのだろう。そのようなものは、むしろ良好な人間関係や信頼感につながり、無理に変える必要が無いということなのか。
実は、「本当は君の英語の方が・・・」と言われた時、少し思い当る節があった。とくに日常的な会話においてであるが、場に相応しいかどうか、誤解の余地がないか・・・など、確信が持てないとき、私は回りくどい言い方になっても、確実に伝えることを優先していた。そのようにして、誤解をできるだけ回避することが、私の習慣になっていた。
その場合、私の言葉は、人々の耳にどのように響いているのか?
それを確かめたかったのだが・・・彼のメッセージは、「それは正しい方向であり、姿勢を崩してはいけない」という警告だったようだ。
社会に溶けこむためには、無理に背伸びをせず、人々の信頼を第一とする。
異邦人として暮らす者の、最も大切な心得かもしれない。そう思って見回すと、前回の記事で紹介した一流と言われるような人々も、同じ構えのように見える。
彼自身、非英語圏の大学に勤めた経験があった。また世界の各地から多くの学生やポスドク、ゲストを受け入れてきたので、その大切さを良く知っていたのだろう。
 
しかしながら・・・
ただ私自身は、「通じれば良い」ではなく、自分の英語をもう少し洗練させたいと、今でも密かに抵抗を続けている。無理のない範囲でだが、やはりそのような努力も、継続した方が良いように思っている。
日本語の達者な知識人として来日し、日本の社会で丁重に扱われてきた人々は、これまでにかなりの数に達している。しかし、これは私の個人的な印象であるが、昔から日本の社会で暮らしながら、言葉の上達が初歩的な段階で止まっている、と感じられる人々が、最近は目立つようになってきた。
日本語の達者な外国人が珍しくなくなった現在、このような人々は、かつての信頼感を失いつつあるように見える。いつまでも言葉が未熟なまま辛口のコメントを発信することが、敬意を欠いた態度と映る場合もあるのか、そのような人々は、マスコミへの露出が急速に減っている。言葉を絶えず向上させる努力は、現代の社会では、信用の必須要素でもあるのだろう。
それに、あまり考えたくないことだが、私の場合、カナダの先生が1つも例を示さなかったのは、彼の頭をよぎった例が余りにもまずいケースばかりだった・・・という可能性もあるので。
(完)