浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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ガラパゴス列島の受験社会 Ⅰ

 

ユヴァル・ハラリの歴史観

 

ユヴァル・ハラリの「サピエンス全史」は世界的なベストセラーである。私もテレビ番組での断片的な紹介によって、内容を一部だけ知っていた。そして、サロンメンバーの一人がその漫画ヴァージョン(上下2巻)を持って来てくれたので、この正月に読んでみた。

 

私は文系学問の素養に乏しいので、このような話になると、どうしても独断と偏見による解釈となってしまうが・・・以下は、私の理解した範囲の紹介である。

 

ハラリ氏によると、人間の社会は古代から現代に至るまで、神話(作られた話)によって保たれているそうである。必ずしも根拠のない様々な価値を、大多数の人々が信ずることによって、人間社会は集団として機能することができる。この信仰が失われた場合、例えば貨幣の価値を人々が認めなくなった場合は、経済システムは崩壊する。また法令や道徳の正当性を人々が認めなくなれば、人間は互いの協力関係を築くことが出来ず、社会は成り立たない。

 

法令の正当性や貨幣の価値を保証する枠組みである国家、あるいは経済活動を担う企業といった組織は、具体的な実体ではなく、互いの承認によってのみ成立している想像上の機構である。これはつまり、古代人の社会形成を促進した神話の相互承認、それによる価値の共有と同類である、とハラリ氏は主張する。

 

 

ある大河ドラマ

 

江戸時代の日本は長期の鎖国によってガラパゴス化し、独特の価値観と文化を育んでいた。この社会は、明治維新と第2次大戦の敗戦という2度の大きな事変によって、価値観の大きな変化を経験し、大きな変容を遂げた・・・と私は教えられてきたが・・・

 

帰国して暫く経つうちに、私は「日本の社会は、実は江戸時代から余り変わっていないのではないか?」という思いが、次第に強くなってきた。外国帰りにとって、そのように感じさせる経験が、余りに多かったのである。

 

ハラリ氏の指摘が正しければ、人々の価値観が変われば社会も変容するはずである。変容していないのは、価値観そのものがあまり変わっていないからなのかもしれない。

 

実は、今から50年ほど前に、この点を見事に風刺したNHK大河ドラマがあった。確か「男は度胸」というタイトルだったと記憶する。

 

そのころは、「昭和元禄」という自嘲気味な言葉が盛んに使われていた。経済が栄えた結果、文化が成熟から退廃に向かい始めた江戸時代の元禄年間に、高度成長によって人々が豊かさを感じ始めた昭和の中・後期を重ねた流行語である。ドラマは江戸を舞台として、無能な官僚機構、官・民の癒着、そして内容の空虚な官吏登用試験やそれに血道を上げる寺子屋の受験教育など、昭和元禄の世相を鏡のように映し出すシーンを満載し、大いに視聴率を稼いだ。

 

残念ながら、このドラマは再放送されたことが一度もない。当時は録画を保管していなかったので・・・とNHKは言っているが、果たして本当か・・・

 

 

価値を継承する者、否定する者

 

ユヴァル・ハラリの指摘する通り、価値観の共有が人間社会を形成するのであれば、その価値観に従って、人々はどのように行動するのか?

 

当然ながら、その社会において価値が高いと見做されるものを欲するであろう。それは物質的な価値の場合も、精神的な価値の場合もある。

 

私は江戸時代についての知識は殆ど持たないが、少なくとも私が(親類縁者を通じて)間接的に知る大正時代から、直接的に知る現在に至るまで、100年以上の長きに渡り、日本の社会では一貫して、「学歴」に高い価値が与えられてきた。これは本質的に精神的な価値感に基づくと思われるが、精神的な価値であっても、それに従って社会が整ってくると、物質的な価値と関連性が生じる。古代の聖職者が超富裕層であり、特権階級であったことに似ている。

 

どのような種類の価値であれ、それを得た者は、社会がその価値を永続的に認めることを欲する。全員とは言えないが、価値を継承する人々の多くは、そのような人々である。

 

価値を手にする者が少なければ、継承者の数は多くならない。したがって、継承者は少数でその価値を守らなければならない・・・ように見えるが、実際はそうでない。多くの人々は、一部の人々が寡占する価値を否定するのではなく、むしろそれを得るための行動をとる。つまり価値の継承には、それを得た者のみならず、多数の人々が参加する。そして、手にする者が増えれば価値は相対的に減少するので、継承者はむしろ、それを警戒する。

 

例えば、「ダイヤモンドなど炭素の塊で石炭と変わらない、もっと綺麗な、色の付いた宝石がいくらでもあるぞ」と誰かが言い出し、多くの人が「そう言えば、そうだな・・・」と考え始めれば・・・鉱山の採掘権を持つ企業にとっては、死活問題であろう。しかし実際に、そのように考える人々は少ない。

 

ダイヤが炭素の塊に過ぎないことは、誰でも知っている。が、殆どの人々は、その価値に異を唱えない。それは、今までその価値が社会で認められてきており、それが今後も(少なくとも当分は)続くと考えるからである。自分が小さな石をはめ込んだ指輪でも持っていれば、なおさらであり、価値の低下は望まない。

 

私などはダイヤの価値に否定的であり、上の観点からすれば例外と言えるが・・・

その私にしても、上のような意見を声を大にして表明する訳ではない。むしろ経済的に余裕があれば、オトメにネックレスを買ってやりたい、などと思うかもしれない。誰かが大きめのダイヤをくれると言えば、喜んで頂くであろう。

 

ただ私の場合、大きいダイヤを頂くのは、換金できることが前提である。「宝石にして自分の身に付けるだけで、売ったり何かと交換してはいけない」と言われたら、私には何も使い道がなく、辞退するだろう。「君の奥さんが身に付けるのは構わない」と言われても、あまり魅力を感じない。オトメには大変申し訳ないが、彼女が特別に豪華なダイヤを身に付けても、貧相な私が隣に並んでいれば、人々は本物と思わないだろう。宝石に見合った服を彼女に購入するのも、私には負担が大きい。

 

もちろん、辞退したと知れば彼女は怒るであろう。むしろ無理をしてでも高級な服を揃え・・・私が隣に立たないことを望むかもしれない。

 

いったん社会に定着した価値観は強固であり、時に不幸を呼び込む。

 

(続く)