浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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ガラパゴス列島の受験社会 Ⅱ

前回の記事ではダイヤモンドを例として、人間社会で一度定着した価値観は根強く継承されると書いた。そして日本の社会においては、江戸時代から学歴の価値が継承され続けていると書いたが、これらは、いずれも本質的に同じ現象なのだろうか?

 

 

人造ダイヤと天然ダイヤ

 

ダイヤモンドについて私が不思議に感じるのは、人工ダイヤが比較的簡単に作れるようになっても、天然ダイヤの値崩れが起こらなかったことである。これはルビーなど、他の宝石についても言える。

 

「天然のものとは輝きが違う」など、多くの理由が語られているが、私はあまり信用していない。そのような物理的な理由ではなく、ビジネスを守りたい人々が暗躍した結果ではないか・・・と、考えてしまう。

 

人造ダイヤが夢物語だった頃、その作成技術の完成や争奪戦は、しばしばスパイ映画の題材にまでなっていた。

 

しかし、いざ出来てしまうと、全く拍子抜けである。色合いを決める微量な不純物のコントロール、光の反射を左右する面欠陥の導入など、宝石としての品質向上には、誰も関心を示さなかった。科学技術に従事する人にとっては、単に「炭素を固めたもの」だからなのか・・・

 

ダイヤは単に硬いだけではなく、多くの点で工業的に利用価値がある。その方向では結晶成長の技術などを駆使して、今でも様々な発展が続いている。

 

 

貨幣の価値は何を意味するか

 

ユヴァル・ハラリの「サピエンス全史」の文脈において、社会の形成に直接的に重要な役割を果たすのは、ダイヤモンドではなく貨幣である。

 

貨幣は、ダイヤや金(Gold)のように、天然に存在している物質ではなく、人間が作り出したものである。

 

多くの古代王朝において、金は貨幣の役割を果たしていたようなので、その後に流通している貨幣はいわば人造の金である。

 

ダイヤの場合、人々は本物の人造品(言葉に矛盾があるが)でも価値を認めなかったが、金の場合には、本物と全く異なる代替品を承認してしまった。

 

そもそも、貨幣はなぜ必要だったのか?

 

私が素朴に考えるに、貨幣は、社会的必要度を定量化する手段として、導入されたのだろう。あらゆるものの必要度に順位をつけ、さらに順位だけではなく、これを値を持つものとして定量化する。そして異なる種類のものでも、必要度を比較できるようにする。もちろん、需要と供給の変化による価格変動などを考え出すと、話は単純ではないが・・・

 

人間にとっての必要度を「価値」の定義とするなら、貨幣は必ずしもハラリ氏の主張するような相互承認された神話ではなく、記録媒体の役割を持っている。電子マネーになれば、紙でなく電子媒体に記録される。紙幣はただの紙切れであるから価値は無い、という主張は成り立たない。

 

 

序列を気にするサピエンス

 

あらゆるものの必要度を定量化する、と書いたが、人間の必要度の場合はどうであろうか?

 

古代の社会には人々の間に必ず序列があり、精密な定量化でなくても、官位などによって順序付けられ、ディジタルに価値を定められていた。同じ官位でも給与額に差があれば、より精密に定量化されていたと言えるだろう。現代においても、あらゆる組織に職制上の序列がある。

 

「サピエンス全史」によると、このような序列が生まれるのは人間社会の必然ということらしい。序列を相互承認することによって、組織に秩序が生まれ、意思決定を円滑にする。私の理解が正しければ、これは、古代・現代のみならず、未来でも継続する性質のものなのだろう。

 

しかし現代社会は肥大し、複雑化したことで、序列は混沌とした。国家には国民が等しく属するが、士農工商などという簡単な区分に収まっているわけではない。職業上の組織は数が膨大であり、組織を離れた一般社会においては、個人間の序列は決められていない。

 

少なくとも現代では、組織を離れた一般社会において序列は必要ないと思われるが・・・それでも霊長類の遺伝的宿命なのか、組織を離れても、互いの序列を気にする人々がいる。これは漠然としたものにしかならないが、気にする人々は、これを精密に定量化したがる。

 

が、その尺度について、合意を形成することは難しい。それぞれの組織内での序列は参考にはなるが、一般社会においては、それ以外の共通性のある基準が必要だ。

 

身長、収入、IQ・・・  などは共通性があり、定量化も可能だが、合意される可能性はないだろう。品格・・・は漠然としすぎており、客観的に定量化できない。

 

社会に対する貢献度は、多くの人が納得する基準かもしれない。しかしこれは、少なくとも同一の組織内でなければ、定量化が難しい。そして、まだ社会貢献を始めていない若い人々の場合は、潜在的な貢献度を何らかの方法で測らなければいけない。

 

若い人々は評価の対象から除外すれば良いのだが、企業の採用や男女のパートナー選びでは、そうも行かない。

 

若い人々の場合、将来の可能性とある程度の実績と言う意味で、学業成績は一定の基準となり得る。異なる組織の間でも共通性があり、点数化されるので定量的である。またIQと異なり一定の努力を要するので、意欲や社会人としての適性も含み、一応の安心感がある。

 

これらの理由から、現在では学業成績は若い人々を評価する共通基準として、どの国々でも一定の範囲で相互承認され、継承されている感がある。貨幣の相互承認のレベルには届かないが、とくに日本の社会ではその傾向が強い。

 

 

 

蛇足

 

男女のパートナー選びにおいて、価値基準の相互承認が必要・・・と書いたが、

 

生物に性別がある理由として、進化を加速するためという説があるそうだ。

 

現実に雌雄同体の生物もあり、昆虫などは時期によって有性生殖となったり無性生殖となったりする場合があると聞く。

 

もちろん、無性生殖では単に同一の遺伝子が再生産されるだけで、進化は突然変異だけが頼りの緩慢なものになる。2つの遺伝子の組み合わせによって、次世代の遺伝子の多様性が確保され、進化が加速される。

 

しかし高等動物の場合には、性別があることによって、さらに生物種としての意思が反映された、別次元の進化が可能になるそうだ。

 

例えば孔雀の場合、オスの羽根は美しく、大きく進化している。しかし最初はオスの羽根も小さく、貧弱だったそうだ。メスが美しい羽根を求めたために、その形質に優れたオスが子孫を残す確率が上がり、現在の方向に短期間に進化した、というのである。

 

孔雀の羽根の場合、大きさや美しさが種の生存・繁栄にどのような効果があるのか知らないが、一般に生物種は、種内で共通の評価基準を模索し、生存に有利な遺伝子を残す戦略をとっているのかもしれない。だとすれば、序列の発生はサピエンスに特有な話ではなく、さらに根が深いことになる。

 

(続く)