浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

~記事へのコメントは歓迎です~

英国の鳥(4)

 

 

前回は、キャンパスの池に住むアヒルの行動について書いた。ゲストハウスの住人が餌付けを始めたため、毎朝、湖水からアヒルが行儀良く、列を成してやって来た、という話であるが・・・

 

 

カモメのホバリング

 

ヒルだけではなかった。

間もなく、湖水からは、カモメもやってくるようになった。

 

カモメもまた、行儀が良い。

彼らは羽ばたきながら、ホバリングして停止し、空中に長い列を作る。先頭のカモメの鼻先にパンを放り投げると、ひょいと飛びついて口にくわえ、そのまま飛び去って列の後尾に付く。

 

驚くべきは次の瞬間である。2番手の者が先頭の位置に、シュン! と瞬間移動し、ピタリと停止する。そして同じことが次々と後続に、連鎖反応のように起こる。

その速さは驚くべきである。最後尾のカモメが移動するまでの時間はわずかで、列全体が瞬時に移動する。

 

見事な空中ショーに、子供たちは喜んでパンを放り投げた。先頭のカモメは、投げる位置が悪くても、取り損なうことは滅多にない。たまに取り損なっても、地面に落ちたパン屑を拾い上げるか、見失えばそのまま後ろに飛び去る。残っていた数羽のアヒルが、おこぼれを拾うこともあった(アヒルとカモメの時間帯は、わずかにオーバラップしていた)。

 

長屋の全世帯が餌付けに参加していたので、食料は十分にあった。1軒の家でパンが終了すると、隣の家の窓で住人が待ち受けており、列全体が瞬時にそちらに移動する。列は長かったが、それぞれが3回ほど餌にありつけた。

 

 

「カモメの水兵さん」という童謡がある。

 

   並んだ水兵さん 駆け足水兵さん 仲良し水兵さん  ・・・

 

という歌詞が歌われているが、この歌詞は、私たちが見たような、統制された集団の動きを描いたのであろうか?

 

それとも、これは他の鳥と同様に、英国のカモメに特有の行動なのであろうか・・・?  

 

知っている方がおられたら、教えて頂きたいと思っている。

 

 

 

白鳥とアヒル

 

そして最後に、湖水のセレブたる白鳥もやって来た。

 

白鳥は頻繁に見かけたわけではない。数がそれほど多くない。数羽しか泳いでいない日も、全く姿を見ない日もあった。

 

遠くから眺める湖水の白鳥は優雅であるが、近くで見ると、そうでもない。

大型で重量感があり、下の方の羽は、かなり泥で汚れている。

 

地上を歩くと黄色い大きな水かきの足が見える。上半身をドレスアップした美人が、作業ズボンと黄色いゴム長を履いているようで、やや興醒めである。

 

そして、行儀よく並んで食べているアヒルの列に、当然のように割り込んでくる。

ヒルは大人しく餌場を譲り、白鳥が去るまで待った。

 

セレブはこのようなものかもしれない。人間社会の縮図を見た気がした。

 

住民の多くは、白鳥がやってくると、パンをやらなくなる。白鳥は地上に散らばっていた屑を少し口に入れ、間もなく去って行った。その後、彼らは来なくなった。

  

 

 

余談

 

現実の白鳥にはやや幻滅したが、私は白鳥を主人公とした「醜いアヒルの子」というアンデルセンの童話が好きである。こちらは、アヒルが白鳥の子を苛めていた、という話から始まっているが・・・

 

カメが言葉を覚え始めたころ、「ストーリーテラー」という童話の朗読集のカセットテープを買い、オトメの英語学習もかねて、3人で良く聴いていた。 

英国は児童文学を大切にする国である。このとき、ほぼ原作に忠実な形で、この物語に接することになった。

 

 

周囲の者と違っているため、家族から苛められて追い出され、自分と同じ白鳥の仲間に出会うまで、様々な場所を転々とする。

 

ようやく飼い主を得るが、ネズミも捕れず、卵も産めない。猫やニワトリから、役立たずと迫害された上、告げ口により罪を着せられ、飼い主に追い出される。 

 

やがて冬が過ぎ、羽が生え代わり、立派な姿になった時、彼の姿を見とめた白鳥の集団から、使者がやって来て、ぜひ仲間に加わって欲しい、と丁重に迎えられる。 

 

 

人々に蔑まれながらも自分を信じて資質を磨き、やがて一流の文化人が集うメンデルスゾーンのサロンに招かれ、多くの文豪や芸術家と交流するようになった。

 

この作品は、その数年後に発表された。作者の人生が投影された傑作である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年6月23日

 

 

 ひと口笑い話: 本当の理由1

 

 

サッカーの試合を見ながら、妻が「メッシ」を「サッシ」と呼んだ。

 

「メ」と「サ」の言い違えと主張しているが・・・

 

 

 

メッシ → メッシュ → 網の目 → 網戸 → サッシ

 

これだ!

 

 

  

 

英国の鳥(3)

 

 

湖水のゲストハウス

 

カメ吉が生まれ、オトメと2人して私に合流してからは、私は下宿暮らしを卒業し、大学のゲストハウスに住めることになった。

 

この大学は、恵まれた環境にあった。敷地に隣接していた小さいゴルフコースを、政府が買い取ってキャンパスを拡張していた。

緑が豊富であり、大きな池があった。湖と言っては大袈裟かもしれないが、ジョギングで一周すると、かなり堪えた。

 

湖水にはアヒルと白鳥が泳ぎ、またカモメが来遊していた。カモメは海辺にいるものと、見たところ変わらない。海辺まで車で30分程度の街であったので、カモメは海岸と湖水を行き来していたのかもしれない。

 

ゲストハウスは、各国からのビジターや私のような研究員が、家族とともに住むために、キャンパス内に建てられたものである。3階建ての棟割住宅であった。

 

池から100mほどの距離にあり、ハウスの南側から湖岸まで、芝生が続いている。

緩い傾斜地に建っているため、一階の窓から首を出すと、床よりかなり高いところに芝生があり、リビングの窓を跨いでそこに出ることができた。

 

私は、休日にはカメを膝に抱き、オトメとともに窓辺に腰掛けて、芝生に寝転んで日光浴を楽しむ隣人達と会話を楽しんだ。

 

やがてカメも、芝生に出て遊ぶようになり、私たちは人々とともに、昼食を外で摂ることもあった。

 

  

 

ヒルの大行進

 

 

この長屋に住むスペインの家族が、ある日の早朝、前日のパンの残りを、鳥の餌として窓から芝生にばら撒いた。

 

これを最初に見つけたのは、湖のアヒルであったようだ。湖岸までかなりの距離であるので、どうやって見つけたのかは不明であるが・・・

 

その家の子供たちは2,3羽のアヒルがパン屑をついばむのを楽しみに、翌日も同じことをした。翌日はアヒルの数が増えた。

 

三日目の朝には、さらに集団は大きくなったが、パン屑が置かれていなかったため、アヒルは窓の外でガー、ガーと鳴き、催促した。家族はその日に食べる予定だったパンの一部を与えた・・・

 

 

ヒルの催促は、休日の早朝であったため、近隣から、うるさいと苦情が出た。

スペインの家族は、パンを与えることを控えたが・・・一度知ってしまったアヒルたちは、連日やって来て催促し、諦めない。

 

黙らせるためには、パンをやるしかない。結局、その他の家族も、1軒、2軒・・・と加わるようになり、最後には、苦情を言った人々も含めて、長屋の全員がパンをやるようになった。

 

 

その頃には、池のすべてのアヒルが、行列でやってくるようになっていた。

 

彼等は大変に行儀が良い。 グアッ、グエッ・・・ と小さな声を発しながら、一列に並んで歩いて来る。湖水から長屋まで続く、長い行列である。そして、先頭の者はパン屑をくわえると、下がって列の後ろに付き、次の者が一歩進む。

  

英語に「乞食の群れにパンを一切れ放り投げる」という表現があるが・・・どうやら、人間より行儀が良い。

 

 

 

 余談

 

この長屋には、香港からやってきた中国人の家族が住んでいた。

御主人のK氏は、もともと病院の検査技師であったが、バイオサイエンスの大学院生として社会人入学していた。奥さんが夜勤の看護婦の仕事で、家計を支えていた。

 

彼らはある日、私達も含めて数組の長屋の家族を招待し、御主人の手料理の北京ダックをふるまった。K氏は料理の達人であり、料理は本格的であった。

 

 

食事を堪能した後、人々は、ダックはどの店で手に入るのか、と口々に尋ねたが・・・

 

彼は微妙な笑みを浮かべ、何も答えなかった。

 

彼はジョークの達人でもあったが・・・ 

 

 

(続く)

回り道をした人々5(後編)

 

 

中編から続く)

  

・・・しかし、このような私の指導は、どうも裏目に出た可能性がある・・・

 

 

研究室訪問

 

A君がアカデミックな研究職の希望を持っていることを、私は感じていた。しかし彼の年齢は、その道を選ぶには微妙であった。

 

博士号を取得するには問題はないが、研究の世界にとどまるためには、その後何年間か、研究員を経験し、それから研究機関の正規ポストに応募することになる。それには実質的な年齢制限があった。

 

私は後期博士課程の進学先を考えるにあたり、メジャーな他大学の、ある先生の研究室を訪問してみることを勧めた。私の研究室で後期博士課程に進み、博士号を取得することは可能であったが、それを私から勧めることはしなかった。その先生は、オーソドックスなスタイルの優れた理論家であり、人間的にも信頼できる。そして私が知る範囲では、学問的な方向性が彼に最も適していた。

 

研究室訪問に際して、私から事前に連絡を取ることは避け、本人の自主的訪問に任せた。私の学生であることは、先方も認識していたと思われる。すでに修士論文の研究成果はまとまっており、これを持参して面談に臨んだ結果、先生はA君にかなりの期待感を持ち、博士課程への進学は事実上内定した。

 

 

 

A君の選択

 

ところがA君は、別の大学にも併願していたのである。彼は意外にも、ブランド大学に憧れ、(訪問した大学も十分なブランド大学であったが)最後の段階でそちらを選んだ。そして、併願の事実を知らされていなかった先生を驚かせ、大いに失望させることとなった。

 

 

物理学の世界では、人間関係のこじれが将来に影響を及ぼすことはあまりない。多くの研究者は、そのようなことが起こることを戒める。やや極端な言い方をすれば、学問的な判断が社会的常識に優先する。経験を積んだ研究者は、自分の実力を高めるための若者の利己主義には寛大であり、むしろ評価の対象とする。それを最優先にした選択であれば、それは生きたであろう。

  

しかし、決定的に重要であるのは、指導教官が、研究者としての将来を視野に入れて指導する気があるか否かである。

 大学院の定員は、適正水準を超えて、大幅に増やされてきた。メジャーな大学は、定員の範囲で志願者を受け入れるが、地方の小さな大学からフリーで志願してきた者が、将来の研究者として期待される可能性は低い。とくに後期博士課程への編入では、指導教官同士の信頼関係が大きく物を言う。

 

A君が研究者への道を強く望んでいたかは定かでないが、その可能性は、彼が別の進学先を選んだ時点で、ほぼ消滅したと言える。年齢を考えると、彼の選択は、それを承知の上であったのかもしれない。

 

A君が進学先として選んだ大学では、S君という卒業生が、研究員として勤務していた(彼は私の研究室の後期博士課程学生の第1号で、今では研究者として大変立派なキャリアを築いている)。学内の指導体制をつぶさに見ていたS君は、心配してアドバイスを与えていたが、A君は従わなかった。

 

  

その後、A君からの連絡は途絶えたが、3年後にS君からの知らせで、A君は無事に博士号を取得し、企業に就職が決まったことを知った。彼の能力と物理学の知識が、ある程度は生かせる職場だったようである。

 

 

人生の選択は、個々人の価値観と優先順位で決まる。そして、自分にとって最適な優先順位は、自ら経験によって学ぶしかない。

 

A君は自分にとって最良の選択をして、回り道を終えたのか・・・

 

あるいは人生の冒険者として、まだその途中にあるのか・・・

 

それは、彼にもまだ、分からないのかもしれない。

 

回り道をした人々5(中編)

 

 

前編から続く)

 

彼に叱責を与えたのは、この一度だけであるが・・・

 

 

反逆者の顔

 

指導を進めるうちに、A君の反逆的な気質は徐々に姿を現すようになった。そして彼は時々、私の指導に逆らった。

 

実は、ワークステーションの立ち上げの時が最初ではなかった。最初は、卒業研究の発表の時である。自分流のやり方に拘り、ついに最後のリハーサルをすっぽかして、発表会の本番に臨んだ。

 

発表会では教官が採点し、順位付けを行う。内容的には他の学生より圧倒的に高いレベルであったが、採点結果は下から数えた方が早かった。自分が何をやらされているのか解っていない口パク学生が、軒並み上位に名を連ねた。

 

 

私はそのような採点結果になることを予想していたので、あらかじめ注意していたが、彼は「教官同士の争いに、学生を巻き込まないで下さい!」と言い放った。 

 

ストレートな表現に驚いたが、確かに卒業研究の発表会には、そのような側面があったことは否めない。採点の基準にも、教育を妨げると思えるほど馬鹿げたものが幾つかあった。口パクでも高得点が得られるようにしているからである。批判的な意見を持ちながらも、他の教官に同調すると見える私の態度に、彼は苛立っていた。

 

採点の基準も、悪いものばかりではなかったが・・・不条理な制度でも、それを利用しつつ、自分を成長させなければならない、ということを、彼は理解しなかった。

 

 

修士課程に進んでからは、学外の研究会で何度か研究発表させた。彼の自由にやらせた発表は評判が良かった。

実際には、自分で試行錯誤を繰り返し、結果的に私が指導する方向に近づいていた。そのころは、私のアドバイスにもある程度、耳を傾けるようになっていたが。

 

 

 

Y嬢の不満

 

A君は、他人の面倒を見ることをしなかった。

 

大学の研究室の良いところは、上級生から下級生へ、様々な知識やコツが代々伝わり、効率の良い学習ができることであるが・・・

 

彼をこのシステムに組み込むことはできなかった。

また、そのスタンスによって、彼の責任とは言えないものの、研究室内に多少の波風が立つこともあった。

  

 

 

研究室にY嬢という、極端に他人依存型の学生がいた。

 

私たちのゼミは、学外者も参加するため、土曜日の午前中に行っていたが、その日の朝、彼女はアパートの出入口で車輪を溝にはめ、動けなくなった。

 

救出のため、ゼミのメンバーは電話でかき集められたが、まだベッドにいたA君は、現場に現れなかった。

 

救出劇が終了し、ゼミは30分遅れで開始されたが、A君は丁度その時を計ったように研究室に現れた。人々に何をやっていたのかと問われ、いつもどおり朝食を済ませた後、ゼミが少し遅れることを見越して、食後のコーヒーを飲んでいた、と答えた。

 

「予測はぴったりだった」と付け加えた。

 

 

Y嬢は過去にも1度、全く同じ場所で、全く同じように車輪をはめている。そのような場合、彼女はJAFに電話せず、仲間を呼ぶ。自分で何とかする手段があっても、まず知り合いに頼る。

 

休日の早朝に路上でガス欠になり、私に電話してきたこともあった。記憶が正しければ、正月の2日である。その時は私に見捨てられ、行きずりの男性を捉まえて、ガソリンスタンドまで車を押してもらっていた。(ちなみに、「私に 捨てられ、行きずりの男性を捉まえ・・・」ではない。誤解なきように)。

 

すべてに手のかかる子であり、「幼稚園児」とか「因幡の白兎」とか言われつつ、結局は人を手伝わせることに成功していたが・・・A君は難攻不落であった。

 

 

 

ある日Y嬢は、私の学生に対する対応が不公平である、と小学生のように不満を訴えてきた。その日のゼミナールでA君は遅刻したが、私が黙って許したことを指摘し、彼は叱られず自分はいつも叱られている、とこぼした。

 

私が時間に関して厳しくなかったのは事実である。しかし、A君だけを放任していたわけではない。私は学問的なところでは引き締めていたが、それ以外の振る舞いについては、小言をなるべく控えていた。

学生は大人として扱うべき、という考えもあった。私の学生時代には、多くの教官が、学生に敬語で接していた。同様の原則を心がけたのである(現実にはそうもいかなかったが・・・ )。

 

そして遅刻に関しては、私自身も時間にルーズな人間だったので、ほとんど注意しなかった。前編の記事に「学生は良くも悪くも教師の影響を受ける」と書いたが、A君と私の類似点は、物理学以外にも多々あった。指導教官の欠点は、このようにして受け継がれて行く。

 

幸いにも殆どの学生は、私がすべての面で厳しい、と勝手に誤解し、時間厳守にも気を付けていた。私は彼等のために、敢えて誤解を解く努力は控えていた。

 

 

したがって、Y嬢の不満が解消されることは無かった。

 

・・・しかし、このような私の指導は、どうも裏目に出た可能性がある・・・

 

後編に続く)