浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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回り道をした人々5(前編)

 

 

ロンリー・ウルフ

 

A君は、私が学部から修士課程の修了まで指導した学生である。その後、メジャーな大学の博士課程に進み、博士号を取得した。

 

 

A君は私の担当科目をすべて履修したが、彼のレポートを添削したことは、ほとんどない。あるとすれば、情報量を落とさず簡潔に書くようにアドバイスして、文章を直した程度である。それも2,3度だけで、すぐに必要が無くなった。

 

このように書くと典型的な秀才のイメージであるが、様子はかなり違っていた。答案やレポートは入学当初から際立っており、注目されていたが、同時に多くの教官は、その完成度にやや怖れを抱いていたように思う。それには、彼の存在感も影響していた。常に一人で行動し、孤高というよりは、一匹狼の雰囲気があった。

 

必修科目の授業で、彼のレポートのコピーが出回ることがあれば、翌年から指導に大きな支障が出たであろう。が、彼には他を寄せ付けない雰囲気があり、そのような目的で彼に近づく学生は、一人もいなかった。

 

 

A君の回り道

 

卒業研究を開始してから間もなく、A君の年齢が実はかなり高い、と言う噂が伝わり、研究室の飲み会の時に、彼は質問攻めにあった。彼は隠すことなく話した。

 

中学を卒業してすぐ、大工の見習いとして3年間働いたそうである。その後、やはり高校は行った方が良い、と考え直して進学したが、私の記憶が正しければ、2年で中退している。

その後、純正品でないプリンターのインクを扱う会社に数年勤めた。使用済みのカートリッジに別のインクを詰めて販売する仕事である。しかし、これが違法か否かが、裁判で争われることになり、A君は会社の将来に見切りをつけ、退社した。結局、裁判には勝訴したが、どちらにしろ仕事は面白くなかった。その後、大学検定を経て大学に進学した。

 

このような経歴を、皆は面白がって聞いていたが、話の経緯から、性格的に集団に馴染まず、押し付けに反発するタイプであることが予想された。そして、恐らくは損得より自分の感情を優先する。

それぞれの転進の節目で、人間関係のトラブル(もしかすると教師や両親も含めて)を伴っていた可能性は高い。しかし、それらについては全く言及せず、事実を述べるだけで感情は覗かせなかった。

 

 

取扱い注意の男

 

このような若者は、強制のための強制で抑え付けると、ろくなことにならない。学校教育からは、ドロップアウトすることが多いのである。私の研究室には、しばしばこのような学生が入ってきた。

 

 もともと精神的なエネルギーが大きい学生は、叱咤激励する必要はない。本人を観察して穴を見つけ、その時その時に必要な学習を指示し、適切な課題を与えれば良い。そして、常に自然な方向に考えることを心がけさせる。

howではなくwhatに注意を向けるように注意すると、最初は少しだけ戸惑いを見せるが、やがて水を得た魚のように自発性を発揮し、成長して行く。私は添削指導によって、このような学生を、数多く見出してきた。

 

N君と同様に、A君は数学的な理解力と計算力が確かであった。そして理系の学生には珍しく国語力・英語力が優れていた。A君には家庭教師のアルバイトをいくつか紹介したが、最も喜ばれたのは国語の指導である。哲学を好み、英語の読解は全く誤訳がなく、完璧であった。 

 

彼の哲学好きや言語的能力は、学習の助けになっていたが、妨げになっていた面もあったかもしれない。

 

物理学はもともと、ギリシャ時代には自然哲学と呼ばれ、実証科学としての性格が弱く、むしろ思弁科学であった。今でも、「科学哲学」を専攻する人々の多くは、物理学をそのように誤解しているふしがある。

 

これは、しばしば若い人を道に迷わせる。若い時にそのような哲学書に接して影響を受けると、思考が実体から離れ、空転を始める。地道な勉強から離れて空論を振り回し、研究者の道から逸れて行った人々を何人も見てきた。A君にはその兆候が少し感じられた。これは早めに芽を摘み取っておく必要がある。

 

 

指導教官との類似点による困難

 

私は哲学にはあまり興味が無いが、物理屋のタイプとして、彼は私に似ていた。学生は良くも悪くも教師の影響を受けてしまうので、それは私にとって、指導上の課題と言えた。

こう申し上げては大変に不遜であるが、私自信も、御指導いただいた先生との類似点があったと思う。そして先生も、その危険性に気付いておられた。

 

 

A君は、私が拘りをもって指導する部分の吸収は早く、修士課程の終りごろは、下降気味だった私の計算力を上回り始めた。物理的な理解も、まずまずであった。

しかし私と同様、コンピュータによる数値計算を好まず、また哲学的な性向から、実験と直結する具体的な研究より、抽象的で原理的な問題に関心を持つ傾向があった。 

 

私が数値計算を多用しなかったのは、私自身の好みもあるが、かつては、コンピュータワークに頼りきった研究は、高い評価が得られない、という事情も背景にあった。

今は背景が異なる。今の世代にとって、それは基本的な研究手段の一つであり、必ず身に付けなければならないものである。そして、思考の空転を防ぐには、具体的な仕事、とくに数値計算は最適である。

 

しかし、自分が身を入れて来なかったことについて、重要性を言葉で強調しても、説得力が伴わない。

そこで卒業研究は、最初に読むべき数編の論文と、研究のターゲットを示し、あとは自分でやらせた。彼が得意とする紙と鉛筆の計算力が生きるテーマだが、最後は実験と比較し、多少の数値計算が必要となるように仕組んだ。 

 

 

大学院の修士に進んでからは、より原理的な問題にチャレンジさせたが、手法として、かなり巧妙な数学をベースとした大規模な数値計算を試みさせた。

 

若い時に数値的な仕事を続けさせると、思考の空転は防げるが、逆に思考を停止させる危険も生じる。バランスが重要である。この計算には理論的な背景の勉強が大きな部分を占めたので、その点の心配は少なかった。

  

 

この段階では、まず研究室の計算環境をヴァージョンアップする必要があった。そこで、私は彼に空っぽのワークステーションを与え、OSからはじまり、科学計算用のコンパイラをインストールして、さらにフリーソフトのみによって、計算からグラフの表示まで、一連の流れを構築する仕事を任せた。 

  

予想されたことではあるが、彼はこの「学問として本質的でない」作業を嫌がった。

彼が従順に従ったのは、プログラミングまでである。

 

「計算機の管理ができない理論屋には、永久に仕事は無いぞ!」と私は言って、無理やりやらせた。

 

この言葉に偽りは無かったが、これは教育ではなく、ほぼ性格の矯正と言える。彼には必要なことと判断した。

 

彼に叱責を与えたのは、この一度だけであるが・・・

 

中編に続く)   

 

 

 

英国の鳥(2)

 

 

前回の記事で、英国では人々が鳥を大切にするため、鳥が人を怖れない、ということを書いた。英国の鳥はその他の点でも、行動様式がかなり変っている。

 

 

 

鳥の交通事故

 

動物が交通事故の犠牲になることは、どこの国でもある。

 

日本では猫が犠牲になることが多いが、英国で路上に猫の死骸を見たことは記憶にない。

 

代わって、道路に累々と屍を連ねるのは、野兎と鳥である。兎は、季節によってはかなりおびただしい数になる。郊外の自動車道路を運転していて、視界の中に死骸が数体以上、と言う日もあり、絶えずよけながらの走行であった。

 

そして、鳥の犠牲もかなりの数にのぼる。

日本では珍しいと思うが、街中でその瞬間を目撃することがしばしばあった。人間を怖れない英国の鳥は、しばしば街中でも、頻繁に低空飛行する。そして、車に当てられてしまうのである。

 

動体視力が弱いのか、動いている物にふらふらと平気で近づく。私の車にぶつかってきたこともあった。横から急に、空中に現れるので、避けようがない。徐行している車でも、接触すれば失神する。

 

車の速度の違いも原因の一つであるが、私は鳥に俊敏さが欠けているのが、最も大きな原因ではないかと思っている。 

別の記事で、英国では虫の動きが遅いと書いたが、気温が低いと、動物は動きが緩慢になる。そもそも餌になる虫がのろければ、鳥も俊敏さを必要としない。

 

 

 

メタボスズメの秋

 

行動様式が変わっているという点では、スズメは最も面白い。

 

英国にもスズメがいる。数は日本より少ないが、見かけも鳴き声も同じであり、間違いなくスズメである。

 

いわゆる群雀(むらすずめ)は見た記憶が無い。単独行動である。日本のスズメは米を良く食べるので田に集まり、群れるのかもしれない。

英国でコメはあまり栽培されていないが、彼らは何を食しているのか?

 

 

やはり主食は虫であろう。

秋が深まってくると、彼らは食べまくる。越冬のため、食い溜めする。鈍重でも虫は簡単に捕食できるので、食料には事欠かない。

 

そして、晩秋になると、木の根の付近に、動けなくなった雀が転がっているのをよく見かける。

信じられないほど、丸々と太っている。太りすぎている上に、腹が一杯なのであろう。大変苦しそうである。

 

近づくとさすがに、逃げなければと思うのか、羽をばたつかせてもがくが・・・腹を上にして、仰向けになったまま、体の向きを変えることすらできない。

たとえ体勢を立て直して羽ばたいても、この体重では離陸できないであろう・・・

 

最初にこの光景を見た時は、怪我をしているのかと思い、拾い上げて調べてみたが、もはや逃げることは諦め、されるがままであった。

木の根の付近で良く見かけたのは、樹液を食料とする虫を食べていたのかもしれない。

 

 

こんな間抜けな鳥に食われる虫も、虫である。

 

何しろ、季節によっては、口を開けていれば勝手に餌が入ってくるほどである。交通事故さえなければ、英国は鳥の天国である。

 

 

(続く)

 

 

英国の鳥(1)

 

 人間を怖れない鳥

 

英国を初めて訪れた日本人が必ず驚くことの一つは、鳥が、人を殆ど怖れないことである。日本人の集まりに新顔が加わると、一度はこの話になる。

 

日本の鳥がすぐ逃げるのは、人がやたらに鳥を追い廻して、警戒心を抱かせてしまったのだ、と考える人が多いが、果たしてどうであろうか。

 

スペイン人が集まりに参加した時、ヨーロッパでの様子を聞いてみたところ、スペインの人々は鳥を見つけると、すぐ捕まえて食べてしまうので、そもそも鳥を殆ど見かけない・・・という答が返ってきた。

 

一方、英国人は確かに鳥を大切にする。

バード・ウォッチングを趣味にする人は多く、自宅の庭に小鳥が舞い降りると、すかさず、用意していたカメラや双眼鏡を手にして、熱心に見入る。

 

庭木には巣箱を用意し、ツバメが軒下に巣を作れば歓迎して、ヒナが巣立つまで見守る。

近づいて追い回したり、ましてや捕獲して食料にする人は、少なくとも私の知る範囲では(近所の子供たちも含めて)いなかった。

 

 

ブラックバード

 

誰もが「かわいい」と称賛する代表的な鳥は、ブラックバードである。鳥類に詳しい日本人の生態学研究者が、ツグミの一種である、と言っていたが、見かけはあまりにも違う。名前のとおり、カラスを小さくしたような真っ黒な鳥で、ハトより少し小柄で、スリムである。

 

なぜ、このような何の変哲もない鳥を、彼らが絶賛するのか、良く理解できなかった。人々は、色の綺麗な鳥にはあまり関心がないのかもしれない。

 

 

関係ないかもしれないが、英国人は黒が好きなのか・・・と思ったことがある。

 

オトメのピアノを買うことを考えて、ロンドンのピアノショップを下見した時のことである。木目調の日本製グランドピアノが置いてあった。ややワインカラーが入った、半透明ブラウンの美しい仕上がりである。私達にはとても手が出ない値段であったが、しかし、同じ機種の黒塗りより、20万円ほど価格が低いことに驚いた。

 

木目を出す塗装は高度な職人技で、外周の板も、節などが入らない、見た目の良い部位を使う。一般には(少なくとも日本では)かなり値段が高いはずである。

 

店主に理由を聞くと、驚いたような顔をしてこう言った。

 

「え?・・・当然じゃないですか? 誰でも黒を欲しがりますよ。見てごらんなさい、黒は美しいでしょう? 圧倒的に、こっちの方がインテリア性が優れているでしょう?」

 

 

朝の挨拶1

 

このブラックバードであるが、大切にされているせいか、いたるところで見かける。

 

下宿暮らしの間は、最初のうち大学まで歩いて出勤していたが、道沿いの民家の板塀に、いつも止まっていた。

 

互に見える距離になると、(日本ならここで飛び去るところであるが)こちらをじっと見ている。

 

こちらもじっと見つめる。それでも逃げない。

 

このような時の鳥の姿は、まことに人間臭い。羽をすぼめて止まっていると、オーバーコートのポケットに手を突っ込んで、やや寒そうに立っている感じである。

 

ついに距離は、手を伸ばせば届くほどになったが、それでも互いに目をそらさず、じっと見つめ合う。

 

そして、私はそのまま通り過ぎ、遠ざかった。

 

ブラックバードの人気の理由は、こんなところかもしれない。

 

 

 朝の挨拶2

 

間もなく、私は自転車で通勤するようになった。

キャンパスの裏口から入り、広い芝生を突っ切る。皆が同じルートを使うので、芝生には幅20cm程の轍の自転車道が出来ていた。そこを走らないと、なかなか動きづらい。

 

ある朝、その細い自転車道の中央に、鳥が一羽、道に直角な方向を向いて静止し、瞑想にふけっていた。これもブラックバードだったと思うが、もう少し大きい、濃いグリーンの鳥だったかもしれない。

 

ある程度のスピードで近づいて行けば、逃げるだろうと予想していたが、鳥は真横を向いたまま、自転車には目もくれず、逃げる気配はない。

 

私は、ぎりぎりになった時に、彼がどのような行動をとるのか知りたくなり、減速せずに、そのまま走行を続けた。

 

ついに互いの距離が1mを切り、これは本当に轢いてしまう・・・と思った瞬間、鳥はちらと私の方に目を遣り、面倒臭そうにツン、ツンと2歩、前に進んで道を空けた。

 

そしてそれ以上は微動だにせず、自分の瞑想を続けた。

 

 

 

 

英国の虫

 

 

計算する時

 

最初から脱線した話で恐縮だが、物理屋は計算をするとき、多くの記号を使用する。

   

a,b,c・・・i,j,k・・・x,y,z  というアルファベットである。

アルファベットの前半は定数、後半は変数と、用途が習慣的に決まっている。途中の i からnまでの6文字は、整数を表す場合が多い。

 

計算を進めて行くと、途中で新しい変数や定数・関数を表す記号が、次々と必要になる。

小文字も大文字も使用し、大文字は筆記体と立体を区別する。ギリシャ文字も使用できる。α、β、γ・・・ξ、η、ζ・・・幾つかは、大文字も使える。Γ、Ψ、Θ・・・

 

記号はそれでも、すぐに足りなくなる。頻繁に登場する一般的な物理量は、定番の記号が習慣的に決まっているため、標準から外れた記号の使用は混乱を招く(例えば t と書いてあれば、条件反射的に時間と思う)。自由に使える記号はそれほど多くない。

 

 

記号が足りなくなった時、漢字が使えたら良いが・・・と時々思う。平仮名も筆記体として、面白いかもしれない。

「中」など、ギリシャ文字の Φ に似ているので、使えそうな気がする。事実、江戸時代に関孝和は甲、乙、丙・・・などの漢字で未知数を表し、代数学を発展させていた。

 

が、物理学は国際社会の共有物なので、そうも行かない。

 

 

右肩にダッシュを付けると、使用できる記号を増やせる。

x', y',z'・・・x",y",z" ・・・という具合である。

ダッシュは、3つまでは、付けることがしばしばある。

さすがに4つはあまりやらない。

 

 

計算が合わなかった日

 

ある夏の日、計算をしている途中で、辻褄が合わなくなった。この日は、ダッシュを3つまで使っていたが、どうしても、ある記号のダッシュが、どこかで一つ多くなったように思える。どこでそうなったのか、わからない。それとも、どこか考え方が間違っているのであろうか?

 

 

紙面から目を離し、腕を組んで天井を見上げた。

書いたものを見ていると、思考が限定されて、間違いに気づかないことが多い。自分が書いたものに自分が束縛され、堂々巡りになる。そういう場合、多くの物理屋は歩き回るが、あいにく、私に割り当てられたオフィスは狭かった。

 

かなり時間が経ってから、紙面に目を戻し、もう一度最初から、計算を目で追った。すると、先程までダッシュの数が多いと思っていた個所が、問題ない数になっている!

 

いったい私は、何をやっていたのか・・・!?

 

 

唖然として目を擦り、紙面を凝視すると、ダッシュと丁度同じくらいの、非常に小さな黒い虫が、消しゴムのカスの中から這い出して来た。紙を揺らすと、ピタリと動きをとめる。

 

こいつか・・・

 

目で見てもなかなか虫と認識できない、点のような小さな存在に、そのとき初めて気が付いた。虫は大体、急に大量発生するものであるが、良く見ると、その日は机の上のあちこちに、かなりの数の点がある。砂ぼこりに見えていたが、そうではなかった。

 

時間を無駄にした悔しさに、「くそ」と呟きながら、消しゴムのカスとともに虫を払いのけた。すると虫は手に触れ、簡単に潰れてしまった。これには再び驚いた。小バエのように、飛んで逃げると思ったのである。これほど動きが鈍いとは思わなかった。真っ黒な体液がインクのように紙に染み、今度は本当にダッシュを印字したようになった。

 

それ以来、私は消しゴムのカスを払いのけるとき、手を使わず、息で吹き飛ばすようにした。私の父は寺の生まれで(自身は仏門に入らなかったが)、私は子供の頃から殺生を戒められていた。もちろん、知らないうちにダッシュが印字されても困る。

 

 

虫のサイズと動き

 

私はその時に、はじめて、夕方に自転車に乗るときに悩まされていた虫の集団の正体がわかった。

眼鏡をかけ、口をしっかり閉じていないと、目にも口にも入ってくる。鼻の穴に入りかけた場合は、すかさず「フン」と鼻息で飛ばしながら、自転車を漕ぐ。鳥なら、口を開けて飛んでいれば、自然に食料が口の中に入って来るであろう。

 

これほど小さい虫は見たことがなかった。小バエよりさらに小さい。蚊の集団のようでもあるが、飛んでいるというより、霞みのように空中に浮遊している。一匹ずつは識別できず、羽音も聞こえない。

 

  

昆虫は、温暖地域ほどサイズが大きくなり、種類が豊富になる。ゴキブリなど、英国人が見れば、驚きは大きいであろう。アメリカでは普通に見られるので、知っている人は多いと思うが・・・

 

英国人ではないが、ヨーロッパ大陸からの友人が私の研究室に滞在していた時、アブラゼミが低空飛行で彼の方に飛んできたことがあった。この時の彼の慌てぶりは、相当なものだった。超大型のスズメバチの類が襲ってきたと思ったらしい。

 

ちなみに、辞書によると、bee = ハチ であるが、bee は蜜蜂のことであり、それ以外はまとめてwaspと呼ばれる。waspには「ぶよ」のような比較的無害のものから、危険度の高いものまで幅があるが、大声で鳴き、高速で飛行するセミをwaspと思えば、慌てるのは当然である。

 

実はヨーロッパの夏場の気温は、大陸ではかなり高いので、大陸の虫はそれほど小さくない。夏に車で郊外道路を走行すると、フロントガラスに虫が次々に激突し、瞬時に潰れる。頻繁にワイパーを作動させて掃除しないと、前方が見えなくなるので、クリーナーの液がすぐ空になる。日本でも地方では、晩夏から初秋の短い期間、同じようなことがあるが、アルプス地方では、フロントガラスに激突する虫は、むしろ日本より大きく、数もずっと多い。殺生どころか、大量殺戮であるが、これはどうにもならない。

 

 

一方、ブリテン島の気温は低く、夏場でもコートが必要な日がある。英国の虫は大陸よりずっと小さい。

そして、英国の虫は動きが遅い。これも気温のせいであろう。虫と言えば、のろのろと動くイメージがあり、セミのように高速で飛行したり、ゴキブリのように素早く移動する虫を見た記憶がない。最も動きの速いのはハエであったが、これも日本のハエに比べるとかなり遅かった。

 

 

血を吸うハエと血を吸わない蚊

 

所変われば  品変わる  ・・・  虫も変わる ・・・

 

私の住んでいた地方のハエは「吸血バエ」であった。これには驚いた。サイズ的には(小バエは別として)日本の最も小さいハエと同程度で、姿かたちも、ハエそのものである。主に家畜の血を吸っていると思われるが、私もよく吸われた。潰れると、赤い液が漏れる。それ以外の種類のハエは見かけなかった。

 

一方、蚊に血を吸われた記憶は一度もないので、蚊は吸血ではなかったと思われる。時々は私の腕にも止まったが、放置して観察しても、結局何もせず飛び去るので、腕に止まる目的は不明である。見たところは日本の蚊と非常に良く似ており、地元の人々もモスキートと言っていた。

 

 

なお、私は日本でもあまり蚊に食われないので、英国の蚊が私の血を嫌った、という可能性は、無いことは無い。特にオトメと一緒にいると、彼女は何か所も食われるが、私は全く無傷の場合が多い。

 

 

文字通り、私は虫が好かない奴なのである。

回り道をした人々4

博識のH.B. 教授

 

H.B.教授とは、「タテの教育とヨコの教育」や「ある転職」に登場したスイスのB教授のことである。また「スイスの鉄道網」でも紹介した。彼もまた、回り道をした人々の一人であった。

 

彼は非常な紳士であった。客人に対する気配りは相当なもので、他の街に用事があるときには、私を誘い、時間をとって案内し、週末に夕食に招待するなど、厚いもてなしを受けた。私より10歳年長であったが、音楽に趣味があり、奥さんがピアノ教師であることなど共通点が多く、私たちは良い友人になった。

 

そして、彼に関して驚いたのは、並外れた博識である。

教会のパイプオルガンの奏者であり、様々なジャンルの音楽作品に詳しい。言語は母国語であるドイツ語の他、英語は勿論のこと、完璧なフランス語と、ロシア語もほぼ身に付けていた。

 

音楽を趣味とする人が、多くの作品を知っているのは当然である。またスイスは小国ながら、独仏伊の3言語の地域に分かれているので、ロシア語を除けば、3ヶ国語を話すのは通常の範囲と言える。

 

しかし彼はそれ以外にも、様々な分野で驚くほど博学であった。例えば殆どの植物について、名前はもちろん、それぞれの特徴を熟知している。植物園のガイドもできるほどである。また歴史の知識も非常に豊富だった。旅先では色々な場所の歴史的由来を、ローマ時代に遡って解説してくれた。その知識の確かさと広さは、並みの旅行ガイドをはるかに凌いでいる。これは、通常のヨーロッパ人と大きくかけ離れていた。

 

 

H.B. 教授の前職

 

以前の記事で、H.B.教授と共に行動すると、必ずといって良いほど、彼は色々な人に声をかけられると書いた。

 

ある日、彼は例によって乗換駅で、買い物籠を下げた中年の婦人と、親しげに立ち話をした。乗り換えの列車が到着し、御婦人と別れてから、「あなたは各地に知り合いが多いですね」と言うと、自分はかつて小学校の教師をしていたので、各地に散らばっている教え子がいるのだ、と明かした。

 

 

話を聞くと、彼の勤めていた学校は、日本の過疎地域の分校のようなものであった。そして、日本の小学校と中学校を合わせたような年齢をカバーしていた。1年生から10年生までと聞いたと思う。それでも生徒数は合わせて30人程度で、教員は2人のみ、それぞれ半数ずつ、全学年の生徒を教えていたという。この形態は、人口分散の進んだスイスでは珍しくないようである。

 

どのようにすれば、そのようなことが可能になるのか・・・?

それぞれの教員が担当する生徒は、自習室と教室の2つに分かれる。教室で黒板を前に、数名ずつグループに分けて指導する。指導を終えると、課題を与えて自習室に向かわせ、次の数名と交代する。これを繰り返す。

それぞれの教員が受け持つ生徒は、グループ分けに無理が生じないように、年齢や学習進度を考慮して、2人で協議して決める。翌年はまた編成を変える。協議に時間を要する年もあるが、あまり問題なく決められるそうである。

 

年齢の若干異なる子供たちが同じグループに属することを許容する。教える順序や内容の判断は現場に任され、年齢で一律に規定しないのであろう。そして、自分が受け持つ生徒に対しては、すべての科目を一人で教えなければならない。ただ、運動が苦手な彼は、体育だけは全生徒を同僚に任せ、かわりに音楽と美術を全生徒、受け持っていた。

 

個々の教員の力量を信頼した、柔軟なシステムである。適任の教師がこのように指導するのであれば、理想的と言える。これだけ多様な子供たちを相手にすれば、勉強を進めるだけでも様々な困難が生ずるとは思うが、これらを適切にマネージできる教員を養成することは、大変なことである。

 

スイスの教員養成、とくに初等教育の教員養成は、高校を卒業した後、4年制の特別な教育機関で行われる。これは大学ではなく、教員養成に特化した専門学校である。

日本では、大学で教職単位を幾つか取り、2週間程度の教育実習を受ければ、簡単に中高の教員免許が与えられるが(したがって私の教え子にも中高の教員が多いが)、スイスでは、初等教育の教員は特別な専門職である。資格を得るには、長期間の実習の経験を含めた、高度な職業訓練を受けなければならない。

 

彼の博識の謎はこれで解けたが、彼の歩んだその後の道筋を知り、また驚いた。

 

 

転身を可能にしたもの

 

H.B.教授は若い時、あまりにも多くのことに興味を持ち、自分の進む道を絞れず、様々なことを勉強する教員が向いていると考えたそうである。

 

 教員養成校を卒業し、3年の教員生活を経た後、彼は物理学を志すことを決意し、大学に入学した。そして4年間の学部を卒業して博士課程に進み、5年後に博士号を取得した。

つまり、彼が博士号を取得したのは34歳である。そして彼は、36歳で教授に就任した。

 

これは、日本では絶対に不可能である。

 

彼は一発仕事で特大ホームランを放ち、それで一躍、有名になったのか?

それなら可能性はあるが、そうではない。彼の仕事は堅実で、どちらかと言えば地味である。誰でもできる類の仕事、と言っても良いくらいである。

では、ものすごいパワーで、人の何倍ものペースで論文を書いたのか?

それも違う。論文の数は、少なくはなかったと思うが、それまでの短い研究歴に相応の範囲で、驚くような数ではない。

 

それなりの数があったのは、実験家との共著が多かったからであろう。これは、彼の生涯にわたっていた(過去形で書いたが、彼は退職後10年以上が経過した現在でも、活発に活動を続けている!)。もちろん、彼らと一緒に実験室で立ち働いた訳ではない。しかし、実験的研究を進めるために、重要な貢献をしていた。彼の教授就任は、数において物理屋の8割を占める実験家が、強く支持したからである。

 

実験家は、理論家の意見を求めて測定を追加したり、データの整理・解析で世話になることがよくある。このような交流から、データの解釈が理論的な説明のレベルに発展することもあり、そのような場合は共同研究として論文が発表される。彼の場合はこれが非常に多かった。

 

通常は、理論家と実験家の間の距離は大きく、このような共同研究は、決して多くない。よくある共同研究は、実験データの解析が、一定の理論的背景と高度なコンピュータ・プログラミングを必要とする場合である。しかしH.B.教授は古い世代の理論家で、プログラミングが全くできなかった。

 

コーヒータイムのアドバイス目から鱗が落ちた、という程度の貢献の場合は、普通は論文の最後に謝辞を述べる程度である。最終著者として論文に名前を連ねることをオファーされる場合もあるが、多くの理論家は、これを辞退する。したがって彼は常に実験と、より緊密な関わり方をしていたのである。

 

ちなみに日本では、自分の組んだプログラムを実験グループに貸し出し、共著者に加わる、という手で業績を水増しする人が、若手に時々いる。これが過ぎると、「他人のふんどしで相撲を取る者」のレッテルを貼られ、キャリアに響く。

 

 

 

謎の能力 

 

優れた理論家に見られるような、先進的なアイデア、驚異的な計算力や洗練された手法、といったものも、彼は持ち合わせなかった。

 

その一方で、基本的な理解は非常に確かであり、見通しと判断力に優れ、バランスの良い研究の進め方が出来る人であった。どのような問題のときに、どのようなアプローチが必要かが、すぐにわかる。まずは最も簡単な方法で、ざっくりと粗い結果を導き、実験データの解釈を行う。これは実験家にとって、大変に助かる。問題によっては、それ以上の高度な扱いを要さず、理論としてもそれで完了してしまう場合がある。そして彼は、結果の妥当性を見分け、軌道を修正する際の判断が的確であった。

 

本格的な理論の論文は、数学的に高度になり、込み入ったやり方をするが、それらを読むとき、彼は私が必ずやるような計算のフォローは、殆どしていなかった。自分が研究を進める場合でも、そのような計算は研究員や共同研究者に任せ、自分ではあまり立ち入らない。もちろん、やれば出来ないわけではないので、検討が必要なときには付き合う。

 

詳細に学んだ理論は博士論文のテーマのみである、と言っていたが、彼は詳細に立ち入らずに、理論・実験を問わず、様々な分野の人と共同研究ができる人であった。実際に私も、彼との共同研究、ディスカッションで、相当に鍛えられ、研究が大きく進んだ。

 

これは引退に近づいた大御所のプレイスタイルである。若い人が真似して出来るものではない。それを彼は、駆出しの研究者の時代からやっていたのだ。そして教室のあらゆる人々が、社交的で興味の範囲が広い彼から、研究上の恩恵を受けていた。そして他大学の人々は、しばしば彼の「引き抜き」を目論んだ。

 

 

 横に知識を広げる教育を批判しながらも、彼の正体は、恐るべき横型人間であった。

  

・・・いや、もしかしたら・・・全く逆かもしれない。

彼は究極の縦型人間であり、興味の向くままに横に足を延ばし、上を見上げれば、縦方向にはいくらでも見通せるだけの力を、密かに養っていたのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

2018年5月29日

 

 

 

ひと口笑い話: 諺を良く考えよう7

 

    「人のふり見て我がふり直せ」

 

  〇   解釈1:人の悪いところを見て、自分の悪いところを直しましょう

   解釈2:人の良いところを見て、見倣いましょう

 

     注: 笑い、ときどき真面目