浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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無意味なことをする理由・させる理由(7)

 前回から続く

  

ある年、私は2人の学生の卒業研究を指導した。一人は成績が第一位のK君であった。K君は初年時の私の授業を満点で通過しており、大変真面目な学生であった。もう一人の学生は、別の記事に登場したS君である。

 

 

対照的な2人のレポート  

 

3年生になった時、2人は添削指導を行っていた私の選択科目を履修した。私は2年次の授業を担当していなかったので、久しぶりの対面であったが、K君のことは良く覚えていた。S君については、1年次の記憶が全く無く、初対面の印象であった。

 

2人のレポートは対照的であった。K君のレポートは真面目に書かれているが、記述が長く、私は必要な事項だけを簡潔に書くように毎回のように指導し、添削にやや苦労した。一方、S君のレポートは非常に短く、ほとんど「ぶっきら棒」と言えた。説明不足を注意するか迷うところであったが、最低限のことは書いてあるので、結局、私はS君のレポートはそのまま返却することが多かった。考えてみると十分良いレポートであったが、賛辞や励ましの言葉も添えなかった。いずれにしろ、2人とも最後まで履修を続けて全問を解答し、良い学生と言えたので、私は彼等を研究室に迎えて喜んだ。

 

 

2人が4年生になったこの年、私は他大学の知り合いの先生を、集中講義に招いた。選択科目の単位がまだ不足していたS君は、これを履修した。K君は単位数は十分に足りていたが、私の勧めにしたがって、彼もこの集中講義を履修した。

 

先生はレポート課題を課し、最終日に提出させて単位を認定した。かなりの数の学生が最高評価のAを与えられていたが、先生はとくにK君だけ、「A」の文字の上に小さく丸印を付し、「浦島先生の研究室には素晴らしい学生がいますね」と喜んでおられた。

 

S君の評価は、合格ラインぎりぎりのCであった。私は気になって2人のレポートを調べた。K君のレポートは20頁にも及んでおり、示された課題の解答以外にも、自分が勉強した内容を詳細に書き連ねていた。S君のレポートは2枚弱で、相変わらずぶっきら棒であったが、それ以上に大きな問題があった。式変形のあちこちに大きな飛躍があるかと思えば、書く必要がない自明な変形が示されている。これは他人のレポートを写した場合に見られる典型的なパターンである。バレないように部分的に抜粋し、短くなりすぎないように、下書きの計算用紙を貰い、見繕って埋める。これで、異なった導き方のように見せる。採点に時間をかけない教員は気が付かない・・・と思っている。

 

もちろん、S君がそのようなことをする学生ではないことは、良く知っている。私は彼を呼び出し、事情を聞いた。事情は聞くまでもなく解っていたが、呼び出したのは、添削指導の際に与えなかった注意を与える良い機会と思ったのである。彼は計算用紙に乱雑な字で手早く計算し、全部を清書するのは面倒なので、何行かをランダムに抜粋し、提出していた。そして説明の言葉など入れない。

 

わざわざ来て頂いた先生に提出するのであるから、相手が分かるようにしっかり書くのは礼儀である。これを最初に注意すれば良かったが、その前に私は

 

  「こんな書き方をすれば、他人のレポートを写したと誤解されてしまう

   ではないですか。K君はAの上にマルまで貰っているのに、君は正当

   に評価されず、いつも損をする人生になってしまいますよ」

 

と彼の側に立って諭した。だが彼は、

 

  「別に単位を貰えなかったわけではないので、いいです」

  

と、そっけない。そこまで自己責任でやっているなら、もはや何も言うことは無い。私は少々あきれたが、それ以上の説教はしなかった。私は日頃、学生には「レポートに無意味なことは書かないように。自分が理解したかどうかだけに拘りなさい。君たちは、生涯成績表をぶら下げて生きる訳ではない」と注意していた。S君はそれを忠実に守っていたことになる。無意味なことをしないという点では、私より徹底していた。私の注意を守ったというより、元からの性格であろう。

 

 

K君の長大なレポート

 

正直なところ、私はK君のレポートに高い評価を与えた集中講義の先生の採点に、やや苛立ちを覚えていた。彼のレポートの長さはS君の10数倍にも及び、しかも設問に無関係な内容が殆どである。そして結局、設問にはきちんと答えていなかった。

 

K君は成績が第一位であったので、卒業研究を行う研究室を自由に選べる立場にあった。実は後で知ったことであるが、実験系の教官の多くは、彼が私の研究室を選んだことで、胸をなでおろしていた。逆にすべての実験家は、成績が「中の上」であったS君を欲し、彼が私の研究室を選んだことを悔しがっていた。

 

実験系の教官は、学生実験で日頃から学生を良く観察しており、彼らの特徴を知っている。そしてK君のレポートは毎週、教官を悩ませていた。ある若手の教官は、K君に向かって

 

  「君は蛇足という言葉を知っているか? 余分に足を描いただけ

   ならまだ良い。君はレポートに、足しか描いておらんぞ!」

 

と叱りつけたそうである。

 

しかし、毎回のレポートが余りにも膨大であるため、彼の努力を認めない訳にはいかなかった。実験の授業に限らず、多くの教官が、結局は彼に良い評価を与えていたのである。

 

課題が自分にとって難しいと判断すると、書籍を写す、あるいはネットで検索した内容をそのまま書く、という行為は、かなりの学生が行う。他人のレポートを写しているのではないので、規則上の不正行為ではないが、私は無意味な行為と断じ、レポートの添削指導では、これを厳しく禁じていた。

 

私の知る限り、K君にはそのような行為は一度も無かった。他の教官の授業でも、同様であったに違いない。しかし、「関係のあるなしに関わらず膨大な量を書く」という、代替行為を編み出していた。「別の事であっても勉強は意味がある」という主張もあろうが、目的に達しないという点では、これも無意味な行為の一種である。誰かが読まなければならないので、他人にも無意味な行為をさせることになる。

 

  

K君の困難

 

K君は、それがすっかり習慣となっていた。解らないこと、出来ない事に出会うと、条件反射的に、違うことで代替しようとする。私の添削指導では、やかましく注意していたので、そこまで私の目に見えていなかった。このときはまだ、意志を持って習慣を抑えることができたのであろう。レポートの長さはS君の3倍程度であり、私はそれを1.5倍程度まで縮めるように指導して、再提出させていた。

 

しかし卒業研究では、心理的な壁が高くなり、意志を持って習慣を抑えることが難しくなった。ゼミナールにおいて、与えられた文献が難しいと、別のことを勉強して、それを話そうとする。癖になっているので、自分の知識と能力で十分に対応できることでも尻込みし、試みる前から代替の仕事を探そうとする。これをやめさせ、必要なことに集中させるのは、容易ではなかった。

 

卒業研究は、目的に沿って結果を出さなければならない。最後にはコンピュータにかけて数値を出すのである。別のことでは代替出来ない(私は学生の将来を考えて、必ずプログラミングを要するテーマを与えていた)。

 

とうとう最悪の事態となった。数値計算とは、何かをインプットし、アウトプットを得る作業であるが、彼はインプットを「代替品」で間に合わせようとした。それを得るために調べる文献を与え、読むべき範囲を指定したが、「必要な情報が書かれていない」と主張したそのページは、一度も開いていなかった。

 

結局、すでに計算を終えていたS君の結果を使わせて貰い、K君は研究発表だけを行った。同じテーマを2人で分担させ、それぞれの受け持ちを発表させる予定であったが、それができなくなった。S君には直前の1か月で、全く別のテーマで個人指導を行い、数値計算まで終えさせ、それを発表させた。S君は余裕でこれをこなし、別のテーマが勉強できたので、却って喜んでいた。

 

 

先生、それは違います!

 

K君の困難は保護者も知るところとなり、私は父親の来訪を受けて、今後について、本人をまじえて話し合った。記録上の成績は別として、理論研究を行うだけの基礎学力が形成されていないことは、本人も分かっている。理論的なテーマでの指導は難しいと判断された。話によると、彼の習慣は中学生時代に始まったそうである。小学校時代から成績は思わしくなかったが、ある時、提出物を熱心に書けば高い評価が与えられることに気が付き、その方向に走り始めた。それが成功体験となって高校時代もそれを続けた。そして平常評価を上げて推薦で大学に入学し、これがさらに成功体験となった。

 

もとより真面目な学生である。彼も自分の問題点を自覚し、大学院では実験系の研究室に移り、地道に努力したいと述べ、父親もこれに同意した(彼は学部の成績により大学院への推薦入学が決まっていた)。

 

私は指導教官を探す約束をして、今後の心得として、すでに何度か与えていた注意を、最後にもう一度繰り返した。論文であれ職場の報告書であれ、また研究室での日常の報告であれ、すべてはレポートと同じである。私の添削指導を思い出しなさい、情報量が同じであれば短い方が良い、などと話し、無関係な記述は社会では負の評価にしかならない、と結んだ。

 

思わず出た言葉であろうか、そのとき父親が、

 

  「先生、それは違います! 無関係な事でも書いておけば、それは社会

   でも、一定の評価の対象になります!」

 

口を挟んだ。名刺によると、彼は地方の原子力施設の所長という肩書であった。耳を疑った。

 

今まで話して来たことを、どう考えていたのか?

中学生時代に始まったという習慣は、恐らく親の指導によるものであろう。

これほどの事態を招きながら、まだ続けさせるつもりなのか?

彼は職場でも、部下をそのように評価しているのであろうか?

 

 

 

評価する者の責務

 

評価されることを望み、努力することは、決して悪くない。それは、一般には自分を向上させる。しかし、間違った評価の基準が存在すると、意味の無い方向に導き、向上の機会を奪うことがある。実際に大学でも、K君に第一位の成績を与えていた。それが彼の判断を狂わせて来たと言える。正しい評価基準を示すことは、正しい努力目標を示すことであり、教育機関の第一義的な責務の一つである。 

 

K君を受け入れる教官を見つけるのに、やや苦労した。私は多くの若手教官から、理論研究室で引き受けたこと自体が、最初から無謀である、と批判された。「日頃から君たちの成績評価がでたらめだから、こういうことが起こるのだ」と反論したかったが、同じ穴の狢では、反論する資格が無い。私のすべての担当教科でも、彼の評価は第一位である。私はベストを尽くしたつもりでいたが、やはりどこかで間違ったのであろうか。 

 

しかしK君は、在学中に自分の判断の間違いに気付き、人生を軌道修正することができた。判断を誤らなければ、資質の良い面が生かされる。私の授業では精一杯を尽くしてきたのであろう。やれば必ずできる人であった。その後、廊下ですれ違う機会は何度もあったが、元気に挨拶を交わした。彼は順調に修士課程の研究を終え、無事卒業した。

 

 

なおS君であるが、彼は私の指導を受けて博士課程後期まで進み、博士号を取得して、その後研究者として立派なキャリアを積んでいる。彼もまた、資質の良い面が最大限に発揮されている。卒業論文で急遽与えたテーマが、彼の博士論文に繋がった。だがこのため、彼は在学中に、全く別の困難に遭遇することとなった。これについては、このシリーズの最後として、次回にお話ししよう。

 

 

(続く)

無意味なことをする理由・させる理由(6)

 

 前回から続く

 

 

「無意味なこと」というタイトルでシリーズを書いてきたが、この言葉を目に(または耳に)したとき、「学校の勉強」を思い浮かべる人が、かなり多いのではないだろうか? 

 

私は小学生時代、真面目に勉強した記憶が無い。むしろ、なるべくやらずに済ませようとしてきた。授業中は常に空想に耽り、自分にとって無意味な時間を、少しでも減らしたかった。どこかの大学で無理やり授業に出席させられている学生と良く似ている。

 

    学校が自分にさせていることに、意味があるのか? 

 

という疑問は、日に何度も頭を過った。加減乗除の計算などを繰り返しやらされたときは、大人になって、こんな仕事で毎日を送るなら、死んだ方がましだと思った。物理学を志さなければ、この思いはさらに捻くれてエスカレートしたに違いない。

  

    学問など、役に立たないのは明らかではないか。

    仕事を得るために卒業証書が必要だから、仕方なく進学する。

    そのために、仕方なく勉強する。 

    やる気が無い者はやめればよい、と言うが、やる気とは何だ? 

    自己欺瞞そのものではないか?

                 

 

    世の中には、無意味なことをさせる権力を持った人間が大勢いる。

    学校の教師、役所の人間、会社の上司・・・

    神様に貰った大切な時間が無意味に使われることを防ぐのは、

    基本的人権である。役に立たないことを人にやらせて利益を得る

    者がいるから、このような世の中がいつまでも続くのだ。

                 

 

 

面白さと難しさの比例関係

 

物理学の世界に入ってから、子供時代に私と同様だった人々が、研究者にかなり多いことを知った。学生にも、何人かの同類項を見出した(「回り道をした人々」など)。

 

余り知られていないが、理系を好む者の殆どは、単調な作業を嫌う。簡単にできるが長く単調な作業と、困難ではあるが決して単調ではない仕事があれば、前者を選ぶ者はいない。

 

理系に限らないが、面白さと難しさは正比例する。

単純なゲームはすぐに飽きるが、将棋は奥が深く、ファンが多い。多くの人が参加するのでレベルが上がり、人間の能力の限界を競う競技になる。面白いものは努力を要し、面白さと辛さは表裏一体である。

 

一般に、仕事を簡単な方向に変えて行こうとすると、仕事は次第に単調で魅力がないものに変化する。ある段階になると、やる意味も失われる。逆に、仕事を面白くしようと心がけていくと、仕事の価値は増し、そして難しくなる。

面白さ、価値、難しさの3者は、互に比例関係にある。

 

 

 

困難なものを何とか簡単な方向に持ち込もう、と発想することは、多くの場合、理系人にとって不幸の始まりである。代替できる作業は、たとえ見つかっても、最も嫌っていた種類の作業となる(真に独創的な新しいやり方なら話は別であるが)。

 

試験の丸暗記対策や書籍の丸写しレポートなど、自ら行ってしまう作業は自己責任であるが、誰かがそのように設え、強制している場合も多い。極端なケースは、幼児に微積分を教えるような教育法である。発案者は教育関係者ということであるが、理解させるという困難な作業を、思考を停止させた記号操作という、単純作業で置き換えれば良いと考えたのであろう。

 

これは民間療法であるが、学校の数学教育や語学教育、理科教育は、かなりの程度まで、それに近い。かくして、理系的人間は、理系科目を嫌うようになる。そして不幸なことに、彼等が興味を持てる内容は、もはや学校教育には余り残っていない。

 

 

(続く)

 

無意味なことをする理由・させる理由(5)

 

 

 

前回から続く 

 

 

 

既得権益を保護するための仕事

 

 

かつては意味があったが、現代ではほぼ無意味になっている・・・それが分かっていても、制度上なお存在し続けている・・・という仕事は、かなりあるように思う。 

 

これは個人の価値観や習慣でやってしまうことではないので、これまで述べてきた例とは異なる。

 

無意味になった仕事が存在し続ける裏には、多くの場合、それによって収入を得ている人々が存在する。

 

 

署名に加えて捺印させる、というのは、一つの典型例かもしれない。ハンコを廃止すれば、仕事を失う人々は結構いる。

 

中高生の学生服は、一向に廃止にならない。生徒は毎年入学するので、これに関わる仕事の儲けは大きいであろう。学生服には意味がある、と主張する人が依然としているようであるが、私には全く理解できない。

 

日本の車検制度は、外国人の間で、いたって評判が悪い。殆どの車がポンコツの状態で走っていた1960年代までは、交通安全のために意味のある制度であったかもしれないが、安全に直結しない自己責任に属する点検項目まで多く含まれ、世界で最も故障の少ない車を生産する国となってからは、どこも悪くない車をいじくりまわし、手数料をとる制度となった。 

 

 第3回の記事で、「無意味な慣行は悪用される」と書いたが、車検の際に不要な部品交換を付け加えられた人は多いであろう。ハンコ制度に関しては、実印を偽造する犯罪なども誘発しているかもしれない。

 

 

 

既得権益を尊重する日本の社会では、このような仕事を排除することが難しい。実際には、無用な仕事を排除しないため、社会の新しい発展に対応したビジネスに労働力が流れず、利益の少ない仕事に固執する社会になっているように見えるが・・・ 

 

既得権益の受益者には、国や自治体も含まれる。

 

実印の登録は有料である。

パスポートの書き換えにもお金が取られる。

運転免許の更新にも・・・

国際免許証の発行にも・・・

・・・にも・・・

 

 

行政サービスには、すでに税金を払っているではないか。

これらの制度は、多くの国々では存在しないか、もしくは無料である。

これらは「隠れた税金」と呼ばれるそうである。ヨーロッパの殆どの国々に比べて、日本は税金が安いと言われるが、隠れた税金を合わせると、そうではない、と言う。

 

ちなみに、これに便乗して、民間も真似をする。

金融機関は送金をするのに高額の手数料をとる。外国の人は、これが最も腹が立つようだ。短期間でもその金は一時的に金融機関に保有され、投資に回されて利益を上げている。一定以上の金額であれば、粗品のサービスくらいあっても良いはずだが、逆に「手数料」をとる。「信じられないことをする国だ」と何人もから苦情を聞いた。

私は社会の経済的な仕組みは殆ど理解できていないが、彼らによると、政府が過保護な政策をとっているため、運用で利益を上げる銀行本来の能力が貧弱で、手数料に頼って生きる体質になっている、ということである。

 

 

 

抵抗勢力

 

組織が習慣的に不要な仕事を抱えている場合は、非常に厄介である。私が直接関わった話として、大学で体育の授業は必要か? という議論が持ち上がったことがあった。

 

実はこの議論は、昔から密かに何度も繰り返されてきた。新制大学における体育の授業は、終戦直後の発足時からであるが、これは帝国大学も、また(大学に昇格した)旧制高校も、多くの軍事教練の教官を抱えていたからである。

 

 

当然ながら、当事者の教官を交えて公に議論することは難しい。が、教養教育の改革の機運が盛り上がった20年ほど前に、この議論が本格化したことがあった。これは全国的な動きである。私が奉職していた大学では、このとき、理学部の教官と教育学部の体育系の教官の討論会が開かれた。

 

  廃止しろとは言っていない。実技を必修単位の指定から外したいだけである。

  必修単位の総数に上限があるので、他の重要科目を必修に出来なくなっている。

 

と理学部側は趣旨を説明したが、これに応ずるはずは無い。必修の指定を外した途端、履修者がゼロになることは目に見えている。それは事実上、廃止と変わらない。

 

  現在の授業形態はやめて、教官が履修者に合わせたトレーニングメニュー

  を作り、指導すれば、喜んで履修する者はかなり居るのではないか?

 

  それを喜ぶ教官はいない。我々は大学教授である。フィットネスクラブの

  従業員ではない。常に体操服を着用し、体育館に勤務する気はない。

 

理学系の教官は、仕事場とはそのようなものであると主張した。理系の教官は、日々作業服を着て、実験やフィールドワークに汗を流している。

 

だが、仮にその方向で進めた場合、将来はどうなるのかを、体育系の教官は正確に予想している。定年退職者が一人出るたびに、非常勤の職員に替えられる。授業科目はやがて廃止され、大学がスポーツ教室を経営し、収入を得るようになるのである。諸外国の例を見れば、それは明らかである。ちなみに、これは語学の教員にもあてはまる。

 

話は体育実技にとどまらず、保健体育の授業にも及んだ。

 

  保健体育は重要である。エイズのような、新しい問題もあり、授業で教える

  べきことは多い。

 

  エイズに有効な方法は避妊具を使うことだけだ。テレビの番組で誰で

  も知っている。それ以上は必要ない。 

 

  揚げ足を取るのはやめて欲しい。健康管理の知識全般について言っているのだ。 

  これは、生涯にわたって役に立つ、重要な教養ではないか。

  

煙草を吸いながらこの発言をしていた保健体育の教官に対して、生物学の女性教官が、控えめに発言した。

  

  煙草が健康に悪いことは誰でも知っている。それにもかかわらず、

  人々は、そのような健康を害する行為を、自ら行う権利を有する。

  健康管理は個人の問題であって、おせっかいは必要ない。

 

 

この言葉どおりではない。女性らしい見事な言葉使いであった(残念ながら思い出せない)。顔色を失った保健体育氏は、あわてて煙草をもみ消し、沈黙した。

 

閉会後、彼女は理学部の教官から喝采を浴びた。彼女は教授会の席でも時折に発言をしたが、その言葉の破壊力と切れ味は、オトメに匹敵するものがあった。

 

 

 

しかし結局のところ、変革は難しい。私はその後、全学の教養教育改革委員を務め、そのとき、この問題は最大の山場を迎えたが、長い議論にもかかわらず、体育の必修指定は維持され、大学はそのために人件費の支出を続けている。これについては別の機会に書くかもしれないが、あまり話を続けると、

 

  そもそも、日本にこれほど多くの大学や教員が必要か?

  なかんずく、社会で役に立たない理論物理は・・・

 

などとなりそうなので、ここではやめておこう。

 

 

ちなみに、現在ではキャンパス内の喫煙は、数か所の小さな喫煙所を除き、厳しく禁じられている。教官は、自分の居室においてすら喫煙を許されない。

 

 

 

 「今しなければならないこと」を見極める勇気

 

「した方が良い」ことは限りなく存在する。さらに、「しない方が良い」ことや、「してはならない」ことまでも、必要性を主張する理屈は、いくらでも捻り出せる。

 

この中から、本当の意味で「しなければならない」ことを見分けることは難しい。逆に、これらを「しない方が良い」と決めつけることも簡単である。例えば、「金がかかりすぎる」と言えば、反論は難しい。

 

このような場合、「費用対効果」という言葉が良く使われる。費用を見積もるのは簡単である。そして、重要なものほど、人々が驚愕するほどの金額となる。効果を予見し、価値を見極め、優先順位を付けることは、その時々に叡智と英断を必要とする。

 

 

 

例えば、人類はオリンピックの開催を続けてきた。経済効果が目当ての場合や、政治利用が目的の場合もあったが、やはり背後に、その価値を認める人々の良識があったと思う。

 

世代を重ねるごとに天井知らずに増加する加速器の巨額の建設費に、アメリカ政府は悲鳴を上げた。議会の公聴会に呼ばれ、将来的な費用の上限を尋ねられた物理学者は、赤道を一周する加速器の建設が最終目標である、そしてその前に、月を一周する計画を進めることが妥当である、と話した。議会は静まり返ったが、非難の声は上らなかった。

 

その後、アメリカ政府は、次世代加速器建設の支出の大半を日本に求める共同プロジェクトを持ち掛け、日本政府が前向きであったため、日本の物理学会は沸き立った。このとき、ある著名な先生が老人介護の惨状に警鐘を鳴らし、物理屋は余りに身勝手が過ぎるのではないか、と自制を求める記事を物理学会誌に掲載した。

 

この計画は、結局、種々の理由により実現しなかった。先生の記事がどの程度影響を与えたかは不明であるが、私の印象では、老人介護についての政府の姿勢は、それ以来、少しずつ変わってきたように思える。

 

今しなければならないことをするためには、必要なことすら据え置く勇気が必要である。社会は不要な仕事に出費する余裕は無いはずである。

 

 

 

無意味なことをする理由・させる理由(4)

 

 

前回から続く

 

仕切り直しをして、 無意味な仕事の分類学の続きを試みよう。

 

無意味と決めつけることは言い過ぎとしても、しない方が良い、あるいは、しなくても良い、という仕事は、日本の社会では山ほどある。

 

 

 

 

見栄のための仕事

 

第2回の記事で、私の「綺麗に仕上げた図」や、実験家の「切りの良い温度までの測定」を、「習慣による無意味な仕事」と分類した。

 

考えて見ると、「習慣による」 というのは、広すぎて、色々なものを含んでしまう。第2回の記事では、習慣の背景として恥の文化を挙げたが、恥の文化に関係したものは、習慣で一括りにせず、独立したジャンルとした方が良いかもしれない。ここでは「見栄のための仕事」としておこう。

 

私の綺麗に仕上げた図も、恰好を気にしていた面があったかもしれない。何を「カッコ悪い」と考えるのか・・・実験家も私も、気付かないうちに、幼児の時から色々と摺り込まれているであろう。恥や恰好を気にするのは、他人と比較されることを意識するからである。 

 

私は実は、恥の文化を必ずしも悪いと思っていない。「見劣りする」という表現は、どこの国にもあり、人々は多かれ少なかれ見かけに拘る。

 

見かけを向上させれば、必然的に、中身も多少は向上する方向に向かう。立派に包装された御歳暮の箱を空けたとき、中にタワシが並んでいれば、ジョークにしかならない。多くの人は、立派な包装に見合った中身を考えるであろう。

 

ちなみに、御歳暮そのものに意味があるかは、また別の話である。「みんながやっているから、やめられない」というのも、見栄と無関係ではないが・・・

 

 

 

評価から美学へ

 

比較は評価に繋がるので、「評価のため」と「見栄のため」の区別は微妙である。

大学の人事選考のプレゼンテーションで、字配りが悪く、図も乱雑で見にくければ、「この人に授業を任せても大丈夫かな?」と誰でも不安になる。負の評価を避けるのが目的であれば、プレゼンの資料をできるだけ綺麗に仕上げるのは、少なくとも本人にとっては「無意味な仕事」ではない。

 

若手にとっては、学会発表なども、評価の場である。そのため、学生時代には、できるだけ視覚的に見やすいプレゼンをするように指導される。この時点では、指導は実質的に重要な意味がある。見やすくするにはどのように工夫すれば良いか、何を省き、何を強調すべきか、話の順序は・・・など、様々なことを学ぶ。

 

しかし指導が実質の範囲を超えたり、自分でもハマってしまって、本来の目的が忘れられて単に習性となり、「習慣による無意味な仕事」に繋がる。また、常に周囲と比較されることを意識づけられ、「見栄のため」となることもある。

 

そして、最後は「自己の美学」に昇華する。

  

  

何年か前、様々な国籍を有する世界の若者が、チームを組み、共同でビジネスを立ち上げる、という模擬プロジェクトが、何回か番組で紹介された。大変成功した試みとして紹介されていたが、その後の類似番組の情報や、関係者から実情を聞いたところによると、この種の企画では、どの国の人々も、日本人とチームを組むのを嫌がり始めるそうである。

 

例えば簡単な打ち合わせなど、準備段階のプレゼン資料などは、どの国の人々も手書きで15分程度で済ませるが、日本人は綺麗に仕上げるために何時間もかける。そのような性向がすべてにおよび、それを「質の高い仕事」と勘違いして人々にも強制し、目的と無関係な仕事を次々に作り出す、というのである。「何のためにやっているのかを全く忘れている」と中国人が不平を漏らしていた。

 

 

私は自己の美学に拘る性格の人間であるので、偉そうには言えないが、一般論で言えば、自己の美学に他人を巻き込むのは、迷惑な話と言える。 

 

(続く)

無意味なことをする理由・させる理由(3)

  

 

シリーズの(2)から続く 

 

 「しなければならない仕事」だけで済ませ、他をすべて「してはならない仕事」とする英国流の社会人生活が板に付いた頃、私は帰国して、地方の国立大学に勤めることとなった。  

 

それまでやっていたことを、やらずに済ませる。 

これは比較的容易である。私は英国の社会に、すんなり順応した。

その逆は容易ではない。それまでしていなかったことを、しなければならない。

  

 

こういう人だったのね・・・

 

日本の大学では、授業の際に出欠を取るという習慣があった。英国でも大学院の授業を担当したが、少人数でもあり、これをしたことは無かったので、長らく忘れていた。

 

学則上、出席は成績評価に無関係である。出欠記録は成績資料ではないので、事務に提出する義務は無い。赴任の際に、着任グッズの一つとして、教員記録用のエンマ帳を事務から渡されたが、「ご自由にお使い下さい」とだけ言われた。事務電算化の以前の時代であった。  

 

その後、研究室の荷物整理が一向に進まず、休日にオトメに応援を頼んだ。そのとき、これを見つけた彼女は

 

    「  あなた・・・ホントは、こういう人だったのね ・・・

        自由な物理屋さんと思って、結婚してあげたのに・・・

        手伝ってあげるの、やめようかしら・・・   」

 

と、宮仕えに身を落とした私に、意地悪を言った。

 

 

最初のうちは、エンマ帳に出欠を記録したが、半年でやめた。オトメの言葉が堪えたからではない。確かに、私は他人を管理するのもされるのも好まなかったが、それが理由ではない。

 

出欠確認は、かなりの時間を使う。点呼を取るだけでも、1学期で積算すると、授業1回分以上の計算になる。紙を回して氏名を書かせると、教室の人数の20%増しであり、回が進むにつれて、この割合は増える。筆跡を確認することは現実的ではない。

 

これだけでも私にとっては、この作業を「してはならない仕事」とするに十分な理由であった。しかし、さらにそれ以上の理由があった。

 

 

宣言

 

出席は成績評価に無関係という建前であるが、一定の範囲で「出席点」を与える教官が少なくなかった。一方で、相応の理由なく1/3以上欠席すれば、未修として扱って良いという学則がある。相応の理由の判断は教官に任されていた。かなりの教官が、この飴と鞭によって、学生を教室に向わせていた。 

 

その結果、私の授業にも、出席者の中には入学以来、専門科目の単位を殆ど取得していない者が、かなり含まれていた。

 

物理学は、段階を追わなければ理解できない。必要な基礎事項を大きく欠いて出席すれば、一日の大半を何も解らない授業に費やし、勉強時間は奪われ、ますます卒業から遠ざかる。

 

するべきことは明らかである。最初の段階をきちんと勉強する以外にない。それにもかかわらず、基礎科目の単位を殆ど取得していない学生が、なぜ学年が進んだ専門の授業に出席するのか?

 

前段階の単位を取得していなくても、次の段階の履修が無制限に許されていた。この不適切なシステムが学生の判断を狂わせ、基礎的な科目の学習を放置して「貰える単位から貰っていく」という習慣を育てていた。そのような状態で出欠をとり、半強制的に出席を促すのであれば、「出席していれば単位が貰える」ことを暗黙の了解とせざるを得ない。 実際に、これが一部の学生の権利意識になっていた。

 

「無意味なこと」というタイトルでこのシリーズを書いてきたが、これは無意味というより、有害の域である。私は後期の授業の最初に「出席は評価に無関係である。出欠は取らない」と宣言した。

 

 

  

する理由・しない理由

  

勤務して2年目が終わる頃、ある年長の教官が教室会議の席で、私が出欠をとっていないことを糾弾し、出欠をとるように要求した。

 

この要求の意図は、要するに出席を成績に反映させろ、ということである。 この教官には以前、別の記事に登場してもらったが、それ以来、「出席しても単位がとれない学生がいるのは、教え方に問題があるからだ」と、機会あるごとに発言するようになっていた。 そしてすべての学生に、「まず出席せよ」と強く促していた。

 

理解する前提を欠く学生が多いことは、誰しも認めていたが、彼は「解らなくてもまず授業に出席させ、規則正しい生活を送るように仕向けることが重要である」と主張した。

  

これは、少なくとも私の場合、「する理由」には決してならない。 

 

理解が不可能な状態にあると知りながら、出席を強制することは、たとえ単位を与えても、精神的な虐待である。程度こそ異なるが、かつてソ連共産党強制収容所において、知識人に対して行っていた拷問を思わせる。無意味な作業を続けさせて意欲を失わせ、最後は廃人に追い込むのである。

 

本人が同意すれば良い、というものではない。ましてや次々と単位を与えれば、より困難な状況に追い込む。返済能力の無い者に、次々に新たな貸し付けを行うようなものである。履修が終わった授業は免除されても、次の授業はより困難になる。どうにも理解できない新しい事項が、日々、借金の山となって積まれていく。意欲を完全に挫かれ、学習を放棄する自己破産状態になる。 

 

本人としては、単位を取得することが、出席を「する理由」になるかもしれないが、これを長く続けられる者は、それほど多くない。無意味と自覚しつつ行う行為は、次第に大きな苦痛を伴うようになる。多くの教官が気付いていないが、理系では単位認定を一定以上緩めると、退学者が増えるのである。学生を良く観察していれば、すぐに分かることであるが。 

 

 

私が渡英する前であるが、当時、中高の学級崩壊が社会問題となっていた。これをテーマとした映画が大きな反響を呼び、あるシーンが何度も宣伝に使われた。

男子生徒が銃を持って教室に乱入し、数学教師の眼前に銃口を突きつけて、

 

    「何も解からん授業を、ずっと聴いとるのが、

     どんなに辛いか、オマエに分るかー!!」

 

と叫ぶ。ショッキングなシーンである。が、これは本人が辛さを自覚しているレベルであり、社会的な危険度は別として、人間の心理としては正常と言える。そうでなければ、多くの人々の共感を得ないであろう。

 

深刻なケースは、表から見えにくい。

担当1年目の学期末試験で、不合格者のために追試験を実施した。そのうち2人は、最初から答案を書く意思が無く、白紙の答案の上に鉛筆を置き、終了時間まで座っていた。計算の途中で時間切れになった受験者には、30分を限度として延長を許したが、その間も引き続き座っていた。そして答案回収後、私の部屋をノックし、「単位、出てますか?」と尋ねた。

 

延長時間も座り続けていた理由を尋ねると、時間の延長を、答案を書けていない者に対する「強制」と解釈していた。「私は無意味なことを強制したりしません」と言ったが、不服というより、怪訝な顔をしていた。

  

 若者をこのような状態にして社会に送り出すのであれば、大学は真に有害な存在でしかない。苦痛に耐えられず進路変更する学生に、むしろ救いを感じた。

 

 

 

させたい理由

 

ふたたび、教室会議の続きであるが・・・

 

「出欠を取らないのは、出席しなくて良いというメッセージを送ることですよ」、と言い出したのには、思わず苦笑した。指摘は正しい。ちなみに、この教官は出席点だけで合格ラインの60点を与えていた。こちらは「出席だけしていれば単位を与える」という明確なメッセージである。

 

彼はさらに、「能力のない学生に無理やり理解させようとすることはいけない」と言って、小難しい説明や計算を示すことは好ましくない、と私の授業を批判した。実際に彼の授業では 、説明や計算を示すことはほとんど無く、結果のみを与えていた。

 

物理学では、そのやり方は深刻な状況を引き起こす。一部の学生にとどまらず、すべての学生から出席の意味を奪う。真面目な学生は、理解できないのは自分のせいだと悩み、ノイローゼに陥る場合も出てくる。大学院への進学希望者をはじめ、私の部屋は多くの学生の駆け込み寺になっていた。

 

もはや争点は明確である。私があくまでも拒否すると、次のように続けた。 

 

  「出欠を取らないなら、貴方の授業に出席せず、試験だけ受けて

   合格する学生が出てくるかもしれませんよ。それで良いのですか?」

 

  「仮にそのような学生がいたとして、何がいけないのですか?」

  

  「それでは貴方は必要ないではありませんか?

   あなたは自分の存在意義を自分で否定していますよ!」

 

直接口にせずとも、本音は出るものである。「あなた」を主語にして語っているが、「私」を主語にしても変わらない。無意味であっても、出席を「させたい理由」は、ここにもあった。

   

しかし、学生が授業に出席していても、大学そのものの存在意義に悖れば、自身の存在意義も失われる。これを分かっているのであろうか? そして、私にまで同じことを「させたい理由」は何であろうか? 

 

大学の存在意義に悖ることは、分かっている。

が、理解させる授業を行うことは、負担が大きすぎる。

 

赤信号でも、みんなで渡れば、車の方が止まる。 

無意味でも、多くが参加して行事として成立すれば、意義を主張できる。

 

マイナスは人数で割れば、絶対値が下がる。

責任も 1/N に分割され、無限小となる。

 

 

が、このシナリオは、全員参加でなければ崩れる。 

 

理解不能の授業は、それに続く他の授業も理解不能にする。

後者を担当する教員が、出席するだけでは単位を保証しないなら、学生は騒ぎ出し、責任を追及されるかもしれない。

 

私の部屋が駆け込み寺になっていたことは、実際にこれが始まっていたことを示唆する。理解不能な授業だけではなく、無意味な出席を強制した責任も、いずれ問われるかもしれない。

 

 

しばしば報じられる、役所や企業における組織ぐるみの不正も、多くの点で類似する。「無意味」と「不正」は、構造的に近い関係にある。

 

私は出欠を取ることを、一概に無意味とはしない。が、一般に無意味な慣行を放置すると、知らぬ間に有害な行為を誘発し、あるいはそれに利用されて、強固に習慣化される。

 

本末転倒という日本語表現は、これを端的に表している。これに対応する英語表現を、私は知らない。辞書で紹介されている対応表現は、意味も適用場面も大きく異なる。最初から「末」を存在させない社会だからであろう。

 

 

なお、文部科学省の指導により、現在ではすべての大学が、出席を成績評価の対象とすることを、学則によって禁じている。

 

 

 

大学の存在意義と出席

 

それにしても、大学や教官の存在意義に、学生の出席は不可欠であろうか?

 

「ウラシマのムカつく顔など見たくも無い」というツッパリ君が、意地を張って自習し、試験だけ受けて見事に合格する・・・

 

それを許すのも、大学の存在意義ではないだろうか?

 

私自身は聴講に値する授業を心掛けていたが、自習して試験だけ受けることを否定する理由は思い当たらない。 

 

私の授業が聴講に値しないほど劣悪で腹が立ったなら、自習のみで合格した暁には「ざまあみろ、オマエなんか、要らね~ぞ」と、悪態をつくも良し。勉強してやり遂げた者の実感であれば、私自身の反省の材料としよう。誰も出席しないのであれば、本当に私は要らない人間である。

 

それにやや近い学生がいた。卒業前の最後の学期で、書籍丸写しのレポートを私に厳しく注意され、

 

   「物理など何も面白くもない。俺の人生に関係ない。

    単位は取るが、卒業したら永久に物理とおさらばする」

 

と言い切った。 

 

彼は、その後も授業には出席した。面白くないと言いながら、期末試験の答案は申し分なかった。単位が出た後に廊下ですれ違い、目が合ったので、思わずニヤリとすると、照れくさそうに笑いを返した

 

最後の答案は、核心の一部を掴んだ記述が随所にあり、彼の物理学に対する適性をはっきり示していた。 面白くなくなったのは、納得が行く前に流される授業に、嫌気がさしたのだ。ノイローゼに至らなかったのは、彼の精神の強さである。

 

彼は社会で十分に力を発揮するであろう。僅かではあっても、学んだことが役に立ったと思う日も来るかもしれない。教育が残すものは、個々の知識だけではない。

 

 

 

ちなみに、私が学んだ大学では、 多重履修(同じ時間帯の複数科目の履修)を認めていた。単位を落とした者の再履修を容易にする目的もあったが、出席より学習の実質を優先させる精神が基本にある。単位の認定は厳しかった。

 

私はこれを利用して、必修科目と重なった他学科の科目を履修したことが、数回あった。これをやっていた学生は多く、ノートを貸し借りしながら、交互に聴講する。互いに責任があるだけに、真剣に聴き、自習で補い、疑問を残さずノートを渡せるように努力した。苦労しただけのことはあり、ここで学んだ知識は、生涯にわたり役に立っている。

 

また多重履修の交流から、私は多くの素晴らしい友人を得た。ノートの貸し借りはディスカッションする機会にもなり、学問的にも人間的にも、彼等から多くを学んだ。私にとっては、大学の存在意義として、最大のものであった。

  

  

 

蛇足

 

投稿前にこの記事の原稿を覗き込んだオトメが、呟いた。

 

  「でも、あれって・・・我慢して続けられる人たち、偉いわよね・・・」

 

「それ」を偉いと言ってはいけない、と言いかけて、口をつぐんだ。

 

以前オトメに、「何事であれ、自分が出来ないことを出来る人は、私は尊敬する」と言ったことを思い出した。

  

仕切り直しをして、かからねばいけない。この問題は根が深い。

 

この社会には、数多くの「あれ」が存在する。

 

 

(続く)