浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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英国人の文学

  

 

 

以前の記事で、英国人は学校教育で文学を取り上げない、と紹介したが、もちろん英国に文学が存在しない訳ではない。

 

私は青年期に達してからは、文学にたしなむ時間をあまり持てなかったので、英文学に限らず、読んだ作品は極めて少ない。が、その範囲での印象としては、英国人の作家は、具体的な情報だけで作品を構成しようとする傾向が強いように見える。主人公の行動や事実関係を淡々と記述し、物語を進行させる。

 

その意味では、登場人物の言葉も、事実の一つとして機能させるのであろうか。私が中学生か高校生の頃であるが、「英文学は、人物が話した言葉をすべて真実として読まなければいけない」という注意を、ある英文学者の文章で読んだことがあった。

 

これは、後のY教授のコメントとも符合するが、私はこれを、ずっと心の片隅に留めていた。

 

 

 

 英国人の文学と無常観

  

大学時代の教養の単位で、「文学」を履修した。毎週、短編の小説を読み、感想を語り合うという気楽な授業という触れ込みで、単位を取るのに時間的な負担が少ないと思ったのである。実際には読まされる分量が多く、その点では、この選択は失敗だった。

 

私の高校時代の延長のような授業と言えるが、それほど議論を深めることがなく、教師は自分の解釈を述べて次へ進むことが多かった。履修者は10人ほどで、天気の良い日はキャンパスの木陰で話し合う。気楽ではあった。

  

そこで読んだ作品の一つに、サマセット・モームの「赤毛」があった。ここで再び、私と他の人々と意見が分かれた。

 

 

療養のため南の島に渡り、現地女性を妻として余生を送る老人の独白を中心に、物語は綴られている。美しかったこの女性は、かつて赤毛と呼ばれた英国人船乗りと暮らしていた。生涯を島で送るつもりであった赤毛は、ある日、寄港した英国船の乗組員たちと酒を飲み、酔いつぶれたところを連れ去られる。女は泣き暮らした後、家族の説得で、財のある老人の申し出を受ける。

 

当然ながら、老人にとって、多くを望める結婚生活ではなかった。が、老人は健康を回復し、予想以上に長生きした。そして南の島の人々は、歳を取るのが速い。歳月は女を大きく変え、若き日々の面影は失われた。

 

ある日、白髪を僅かに残して禿げあがった中年の男が、島に立ち寄り、役場で英国人がいると聞いて、老人の住まいを訪れる。島に立ち寄った理由は解らず、尋ねられるままに、老人は昔話をする。女と赤毛の話もするが、女のその後を聞かれ、「別の男と結婚した」とだけ答える。そして男が立ち上がり、帰りかけた頃、老人はようやく、彼が赤毛であることに気付く。

 

その刹那、今も彼を待ち続けている女が、部屋に入ってくる。

 

赤毛は振り返らず、2人は顔を合わせないまま、赤毛は反対側のドアから立ち去る。

 

 

私は老人の最後の独白を、真実が語られたものと受け取り、2人は互に気付かなかった、と解釈した。他の学生と(ドイツ文学が専門の)教師は、「赤毛は当然分かっていた」とした。

 

頭の隅に英文学者の言葉もあったが、私はそれ以上に、読後感に強く支配された。 

この作品に人物描写は殆ど無かった。ただ、三者三様に過ぎ去った時間が、交錯しないまま、鋭い寒さだけを残して、最後の場面に凝縮する。そして、二度と交差しない三人の時は、再び放たれる。

この場面に人の思惑を絡めることは、この作品の緊張感とコンテクストを失わせ、三文小説に貶めると思えた。実際、教師と他の履修者は、この作品をそのように評価していた。

 

 

 

10数年を経て渡英したが、私の読後感は、そのまま心に残っていた。そして私は、英国人の心の底流に、懐古も後悔も許さない、過ぎ去った時間の寒さがあることを、実感するようになった。彼等にとって、人生とはそれに耐えて生きることであり、これは多くの英国人作家に共通するテーマになっているように思う。

 

 

これを描くには、事実のみを積み重ねる手法が適しているのかもしれない。 

より典型的な例は、最近ノーベル賞を受賞した英国籍の日本人作家、石黒一雄氏であろう。彼は私が滞在していた当時、すでに国内で有名で、「英国人より英国的」と評されていた。

 

彼の代表作の「日の名残り」は、日本語に訳されたが、日本人に読み易くするための配慮であろうか。 翻訳は頻繁に文脈を組み替えて、やや理屈っぽく、原作の香りは失われている。淡々と事実を積み上げて語る原作の表現や話の順序が、この物語の無常観を際立たせる。

 

 

このような英国の作品スタイルは、純文学だけでなく、サスペンスやスリラーなど、娯楽的な読み物に至るまで共通している。これは復讐劇であるが、絶望した妻が

 

   「あなたの愛の無い世界に、住みたくありません」

 

と短い遺書を残し、自ら命を絶つ。夫は真の加害者たる男に、自分を殺させるように仕向ける。そうせざるを得ない状況に陥れ、その直後に、現場にパトカーが急行するように仕組むのである。

 

感情を含む形容詞を一切使わず、行動と状況の写実的な描写が、主人公の意志を際立たせ、ラストに至る迫力を演出していた。

 

 

 

童話との共通点

 

英国は児童文学が発達した国であると言われる。私の勤めていた大学に、その専門の学科があり、日本人も含めて、海外から留学している人々によく出会った。

 

考えて見ると、童話は事実を淡々と記述し、様々な教訓やメッセージを与えている。これが、英国の文学の基本形なのかもしれない。

 

彼等は子供にあまり説教をしないかわりに、童話を読んで聞かせ、社会のルールや人生訓を教える。

 

彼等は、そのような「教育」を、移民に対しても密かに行っている。英国は旧植民地からの移住者が今でも非常に多く、それらの人々が社会に馴染むことを助けるため、ボランティア活動の語学教室が盛んである。そこで使われていた教材は、「オトナの童話」とも言えるものであった。

 

私が語学研修に参加した時の話はすでに書いたが、妻のオトメは、費用をかけずに、ボランティアの教室に参加した。その教材の中で、オトメが最も気に入ったのが、ユニコーン(一角獣)という、伝説の動物が登場する話である。 

 

  「ユニコーンの姿を見た者は幸福になれる、との言い伝えがある」

 

という文章から始まる。

 

ある男が、月明かりに庭を横切るユニコーンの姿を目にする。彼はそれを妻に伝えるが、太った妻は「何を馬鹿なこと言ってるの!」と怒り、日頃の憤懣をぶちまけて激しく罵る。その後、男は何回かユニコーンを目撃し、同じことが繰り返される。

 

遂に妻は、

 

   「アンタは頭がおかしいよ!今まで我慢してきたが、もうこんな

    ろくでなしとは、暮らしていけないよ」

 

と叫んで、精神病院に電話をする。隊長と2人の屈強な隊員を乗せて救急車が到着すると、妻は隊長に向かって、

 

   「この頭のおかしい男が、ユニコーンを見たと騒いでいる。早く連れて

    行っておくれ」

 

と訴え、その他にも彼についての様々な愚痴を大声で並び立てて騒ぐ。隊長は、ソファーで茶を飲んでいる男に向かって、

 

   「あなたがユニコーンを見たというのは、本当ですか?」

 

と尋ねる。男は

 

   「いいえ  ・・・ ユニコーンは伝説の生き物ですから  ・・・

    誰にも見えないと思いますが  ・・・」

 

と静かに答える。隊長は

 

   「そうでしょうな・・・」

 

と頷き、2人の隊員に顎で合図すると・・・

 

女の巨体は素早く担ぎ上げられ、車に詰め込まれた。

 

 

 

女のわめき声とサイレンが遠くに消え、静かになった居間で、男はティータイムをゆっくりと続けた。

 

 

微かに眼差しを送り、月明かりの庭を、静かにユニコーンが通り過ぎて行った・・・

 

 

 

2018年8月31日

 

 

 

ひと口笑い話: ミニ言語学27

 

 

     英語            日本語

 

      through                  (1)  擦る

             (2)「スルッ」 

             (3)「ツルッ」

 

     注: 摩擦を考慮するか否かで、解釈が変わります

        発音的には(3)が最も近い

 

               寒いのは納涼のため・・・

 

2018年8月27日

 

 

 

・  ひと口笑い話: 諺をよく考えよう10

 

 

           「無理が通れば道理引っ込む」

 

     ⇒  「道理を通せば無理は引っ込む   」

 

 

      対偶は常に正しい。人々の勇気を!

 

    笑い話のはずでしたが・・・

    最近は似たようなことばかり書いていたので、つい・・・

 

言葉の重要性6-現代国語と高校生(後編)

 

 

 

前編から続く 

 

 

カラオケに行くと、マイクを持ったら離さない、という人がいるそうだ。

私はカラオケには行かないので、直接は知らないが・・・

 

演壇でマイクを持ったら離さない、という人種なら、大勢知っている。男子校であった私の高校は、そのような連中が多かったので、生徒会は常に大荒れであった。

 

マイクを離さない演説者を引き摺り下ろすために、生徒会の執行部はメインスイッチを切る。声が出なくなり、「あれ?」とマイクをいじる演説者に、すかさず「ほ~ら、マイクも嫌がってるぞ~!」などと、痛烈なヤジが飛ぶ。

 

 

 

現代国語の授業

 

現代国語の入学試験は気に食わなかったが、高校時代の授業は素晴らしかった。教育の控えるべきところには立ち入らず、自主性を育てることを柱とする学校であった。担当の先生は、教科書の文章を題材にして、生徒同士にディベートをさせた。

 

 

生徒の多くは、上に書いたような連中である。この授業でも、議論は常に白熱した。が、授業は合意形成が目的ではなく、最終的に正解・不正解を明らかにする事も、必ずしもしなかったので、白熱するが生徒会のような騒ぎにはならない。解釈をぶつけ合って議論しながら、意見の違いは解消しないことも多いが、生徒は互に多くのことを学ぶ。

 

2年生のとき、その国語の授業で、教科書に湯川先生の「旅人」の一節が取り上げられていた。その時の討論では、私の解釈に同調する人々は少なく、最終的には私一人になったような気がする。なかなか論理的に説得できる内容ではなく、私も力及ばずで、担当の先生も私の意見には賛成しなかった。

 

詳細は覚えていないが、「自由な心を羽ばたかせる宇宙」といったような表現が文中にあり(もう少し解りにくい表現だったと思うが)、これを私が「研究者の心の世界の拡がり」と解釈したのに対し、多くの人々は物理学者が研究対象とする宇宙としたように記憶する。

 

 

 

翌週、先生は廊下ですれ違った私を呼び止め、こう言われた。

 

  「あれから僕も何度か考えたのですが・・・どうも浦島君の意見が正しい

   ような気がして来ました。湯川先生は、御自分の心の世界のことを言わ

   れたのかもしれませんね・・・」

 

少し話し合った後、先生は私に、将来の志望を尋ねられた。

この学校は3年生の1学期が終わるまで、理系・文系を区別せず、全科目を履修させる。が、私の心がすでに理系にあることを、先生は予想していた。そして私の答えに頷き、自分は最初、理学部物理学科に学んでいた、と明かされた。先生が東京大学の文学部を首席で卒業し、銀時計を授与されていたことは生徒の間で有名であったが、転学のことは私は知らなかった。その後も物理学には未練を残されていたそうで、前回の授業の後に、物理学者の著作を幾つか読まれたそうである。

 

進路変更の後に、自分の選択が正しかったのかどうか、悩むこともしばしばあったが、物理学も文学と同様に、曖昧な部分を残したまま、模索しつつ前に進む、ということを多くの物理学者が述べていて、少し嬉しくなりました、と話された。

 

私も先生との会話を大変嬉しく思った。一義的な「解釈」を正解と決めつける入学試験に嫌気のさしていた私に、言葉はそれぞれの人生経験によって、伝わる部分に違いがあって良いことを確認させてくれた。そして、それを許容し、互いに成長する人間関係の築き方を教わった。

  

  

直接的な言葉があった訳ではないが、この日の会話は、私の心のわだかまりを洗い流し、将来に向って、私の背中を、一押ししてくれたように思える。「君は迷わず、自分の道を進みなさい」と励まされた気分になった。

 

 

 

「※※は##でなければいけない」と確信を持って断言し、他人にも強制する。そしてそれが、自分の思索によって得た結論ではなく、他人から教え込まれたものである・・・

 

多くの誤りや無意味な紛争は、これが原因している。個人的にも社会的にも、停滞の原因はここにある。

 

自分が悩んだ末の結論であれば、人は一歩下がり、他人の意見を受け入れる余地を残して、無意識に検討を続けながら前へ進む。

 

 

国語の教育は、どちらの習慣も育てる可能性がある。

 

 

 

「言葉の重要性」のシリーズは、(次回)でとりあえず区切りをつける予定であるが、その前に、英国人の文学について、少し語ることにしたい。

 

 

言葉の重要性5-現代国語と高校生(前編)

 

  

 

 このシリーズは「言葉の重要性4」の続きであるが、その間、ひとしきり英国の国語教育について話し、また「日の昇る国への羨望と失望」で、英国人が日本の国語教育に対して抱いている感情について紹介した。

 

ここで日本の国語教育について、少し考えて見たい。

 

 

 

「解釈」を成績評価とすべきか?

 

私は文学を教育現場で取り上げない英国の初等・中等教育について、あまり肯定的でない意見を述べてきたが、正直なところ、私は子供の頃からずっと、英国人と同様に、日本の国語教育に対しては違和感を持っていた。

 

他人の心の中に立ち入ってはならない」という理由とは少し違う。人の心を知る教育を否定するつもりはない。文学の解釈を教えるのは大変結構である。

 

しかしそれは、Y教授の言葉どおり、基本的には個人の判断に属する、ということを前提にすべきで、自由度のあるものでなければならないと思っている。これを成績評価の対象とするのは、いかがなものか。極端な意見に聞こえるかもしれないが、ある種の思想統制、少なくとも「同調圧力」のレベルの気がする。

 

 

赤いシャツを着ている男を見て「キザな奴だ」と思うのは個人の勝手である。しかし、赤いシャツを着るのもまた、個人の勝手である。好みの問題に「多くの人がそう思っている」という多数決を適用してはならない。 好みは、それぞれの人生経験によって変わる。

 

そして文学は、このような「多数決」をベースにしている側面がある。

「坊ちゃん」に教頭を「赤シャツ」と呼ばせることで、著者の漱石が教頭の性格を表現しているという解釈には、私も一票を投じる。それを学校教育で教えるのも良いことである。が、育った環境が異なり、その判断ができない帰国子女に、「国語の能力」として負の評価を与えることは、不適切である。帰国子女だけではない。「男の赤シャツ=キザ」と考えなければ正しくない、という同調圧力は倫理に背く。人それぞれの人生経験は尊重されるべきであり、否定されるべきものではない。

  

 

 

入学試験の「現代国語」

 

とくに「現代国語」の入学試験の有り方には、多くの疑問がある。RSTの問題文は誰が読んでも変わらないように明確に書かれているが、そうではない文章に対して、正しい「解釈」があるとして、公的な権力を背景に人を評価し、合否を決定する・・・

これは、たとえ著者自身が行っても、権力の乱用に思える。読者の解釈が著者の意図と異なっていても、それは多かれ少なかれ、著者にも責任のあることである。

 

 

受験生時代、模擬試験などを受けた時に、出題者の書かせたい答えが次第に見えてくると、「ソレハオマエノ考エダロ・・・自分ト違ウ考エナラ、バツニスルツモリカヨ・・・」と反抗したくなり、敢えて挑戦的な解答を書くことがあった。出題者をドキリとさせて、一矢報いたくなるのである。

 

 

模擬試験ならそのような遊びも良いが、本番の入学試験ならどうするか・・・

 

受験するつもりだった大学は、そのような問題を出題する可能性が大いにあった。挑戦的な解答を書いても楽勝で合格できる自信は無かったが、当時の私は(今でもそうであるが)、人生の重要な場面で、損得より心情を優先してしまう傾向が強かった。損得を優先することを、潔しとしないのである。その時になって自分がどう反応するか・・・自分でも予想がつかなかった。

 

心配は現実のものとはならなかった。その大学の入試は、大学紛争のため中止となり、受験した大学は「情報を正しく伝える手段」としての国語に徹していた。 「こんな問題を出題する大学もあるのか・・・」と、試験場にて、やや驚いた。

 

ちなみに、古文も漢文も出題されなかった。古文は古代言語として興味を持って勉強していたので、個人的にはやや寂しかったが(私は理論物理でなければ、言語学を専攻したかった)、これらを入学試験の科目から除くことに、私は賛成したい。これは、また別の理由からであるが・・・

 

ちなみに、ヨーロッパの各大学は、かつて入学試験にラテン語を課していた。私が滞在していた当時、英国ではオックスフォードとケンブリッジだけ、まだ続けていたが、半世紀ほど前に、殆どの国で廃止されている。

 

 

 

話がそれたが、現代国語の入学試験については、解釈以外の点でも、出題者の独善的な裁量に、多くの疑問を感じていた。

 

私の受験が終わってから数年後に、これは私が受験を予定していた大学だったと思うが、ある哲学者の書いた文章を「段落分け」させる入試問題が出題された。

 

ある新聞記者がこれに挑戦したところ、彼の解答は発表された正解と異なっていた。納得できなかった記者は、著者を訪問し、確認したところ、書いた御本人は首を捻り、「出題されている範囲では、段落分けなど出来ない」と答えられたそうである。無理に頼んで試みてもらったが、発表された正解とは全く異なっていた。  

 

この事件は記事にされて有名になり、その後、各大学は「段落分け」の出題を控えるようになった。著者が「違う」と言ってしまえば、大学の権威は失墜する。出題はリスクが大きい。

しかし、これはむしろ後退である。段落分けは文章の構成力の問題であり、適切な問題が出題されるなら、良い問題形式と言える。

単に出題者が能力不足だったのである。点差をつけるために難しくしようとして、そうなってしまったのであろう。

 

もともと「はっきり書かれていない」ことの理解度を評価の対象とすることは、段落分け以上にリスクを伴う。存命中の著者が「発表された解答は私の意図と異なる」と言えば、反論は不可能である。

著者が故人の場合でも、あるいは出題者と著者が一致していても、「正解」は多くの人々が納得するものでなければならない。得点差がつく「難問」になるほど、この点が怪しくなるのが、現代国語の宿命である。

 

 

 

 

その後も混乱が続いた「言葉による試験」

  

この頃、代わって登場したのが「論述試験」である。

ただ、これは現代国語の試験として行われたのではなかった。

何かテーマを与え、それについて自由に作文させ、採点する。例えば今なら「自然災害」など、時事的な問題もテーマとなり得る。そのような触れ込みであった。

 

採点の基準や方法はどうするのか、という点に関心が集まった。

これを最初に導入した某国立大学の事前説明には、唖然とした。客観性・公平性を確保するため、内容について主観的な採点は行わず、言及すべき事項をあらかじめ幾つか決めておき、それに関する記述やキーワードが含まれていれば加点する・・・という方式だそうである。

 

 

この人達は正気なのだろうか・・・と耳を疑った。

解釈どころではない。発想にまで「正解」と「不正解」が存在する・・・

恐ろしい考え方である。これを平然とテレビで告知する神経に、私は寒気がした。

 

 

 

教員全員が賛成したはずはないが、初めての試みであり、客観性・公平性についての批判が噴出することを恐れたのであろう。実施を決めたものの、採点者によって結果が変わる試験では、世間は納得しない。また、採点で予想される時間的・労力的な困難さも、教員の心を後ろ向きにした。

 

 

自分自身も大学に勤めるようになって、似たような場面にしばしば遭遇した。実施を決定してしまってから、人々は困難さにようやく気付く。そして、計画の本来の目的が失われるような方針を、実施段階で決めてしまう。その時、誰も反論できない馬鹿げた原則が、本質的な諸点を押しのけて優先される。

  

公平な入学試験と言うのは、(日本の社会では)誰も反論できない金科玉条である。したがって、誰も声に出して言わないが、実際にはこれは幻想である。 

同じ問題を出題し、同じ基準で採点すれば公平である、ということにはならない。短時間の試験で、少数の限られた問題を解答させる方式そのものが、すでに(確率的にではあるが)公平性を破り、個人個人の学力や適性を正確に測ることを不可能にしている。

 

完全な客観性・公平性が可能であるという前提で、これを追求すれば、入学試験の問題は不適切なものに変貌して行く。

自由に記述させると言いながら、あらかじめ発想に「正解」を決めておき、それに合致する解答だけに加点する・・・

誰が採点しても変わらない、という見かけ上の公平性だけを残し、実際には不公平は大きく拡大している。偶然性による不公平に加えて、出題側の恣意的な事前裁量が加わり、不公平や不適切を通り越して、不正と言うべきレベルである。そして文章によって論説力、構成力などの思索的能力、情報発信力を評価しようとした当初の目的は、消し飛んでしまった。

   

不可能なことを可能と断ずる・・・

 

無理が通れば、必然的に道理は引っ込む 

これは戦前、「大和魂さえあれば竹槍でも戦車に勝利できる」と断じた金科玉条に、誰も公然と反論できなかったことに似ている。それが、見かけ上の公平性をアナウンスする大本営発表を招く。

 

 

最近の方向性

 

現在では多くの大学で、文系科目を中心として、科目別に論述試験の形式が取り入れられており、採点方式も改善されているようである。

 

知識の正確さや論旨の明確さが評価の対象となり、結果的にこれは、理系科目で昔から行われている(マークシート方式でない)記述試験に近づいてきた。実際に、物理などでは、ほぼ通常の記述試験を「論述形式」と呼んで実施している大学がある。

 

説明文や図解なども評価の対象として、通常の試験を充実させて行けば、すべての科目の試験は、言葉の試験としての役割も十分に果たす。すべての学問は、言葉による情報交換の上に成り立っている。「現代国語」が、情報を正しく伝える手段としての言語の教育を妨げないことを願う。

 

(続く)

2018年8月19日

 

 

・  ひと口笑い話: ミニ言語学26

 

     英語      中国語・日本語

        twin                         対

 

    注: ・・・かもしれない