浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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言葉の重要性3ー卒業を控えた学生(前編)

「言葉の重要性2」から続く 

 

 

私の着任当時、奉職した大学では、卒業研究のために研究室に配属を許される基準が非常に緩かった。私は3年次後期の必修単位の1つを担当しており、単位認定を厳しくしていた。その結果、他研究室の4年生が、就職は内定したが卒業が危うい、というケースが続出した。

 

在職時代の中頃になってようやく、研究室配属の基準は見直され、また教官の入れ替わり等によって単位認定は全体的に厳しくなり、一定のレベル以下の学生が卒業研究まで辿りつくことはなくなった。しかしそれまでは、多くの必修単位を残す学生が卒業研究を開始するため、就職が内定した学生は履修登録をするだけで、残りの必修単位が自動的に認定されるという慣行が定着していた。

 

これを正常な形にすることが、私の最初の戦いであった。私は追試験で合格できそうもない学生には、課題を与えてレポートの提出を命じ、その上で単位を認定することにした。

レポートを提出させた上で、面接試験を行い、自分で書いていることを確認する。最低限の勉強をしなければ単位を認定しないようにしていた。面接試験といっても、実際にはそこで叱責し、何度も再提出をさせる場合が多かった。

 

 

 

受け取った情報は・・・

 

赴任して3年目のことである。レポートを課された学生が、3日後にレポートを提出してきた。10日はかかると予想していた課題である。何かを抜粋して写してきただけで、まともな内容ではなく、単に3日を無駄に費やしただけであった。

 

残り時間は、さらに少なくなった。「またか・・・」と思いつつ、修正個所(というより勉強すべき内容)を3点ほどに絞って厳しく言い渡し、再提出を命じた。どうみても、あと1週間はかかる。卒業名簿に載せる手続きに間に合うかどうか・・・

 

彼は次の日の朝、やって来た。

見ると、何一つ変わっていない。やはり、単位は自動的に認定されると思っている。真面目に勉強して書かなければ、本当に卒業できなくなることを、十分に悟らせる必要がある。

かなりプレッシャーをかける言葉で、同じ指示を繰り返した。その結果・・・

 

次に持ってきたのは、同じ日の午後一番であった。 

レポートは見るまでも無い。私は読まずにテーブルの上に置き、

 

  「君は今朝、私に何を注意されたか覚えていますか?」

 

と、厳しい態度で話した。

 

ひたすら指示を無視し、相手が根負けするのを待つ作戦なのだ・・・と私は確信していた。

 

・・・が、何一つ覚えていない。少なくとも、怯えながらもそう主張した。

「何も覚えていなければ、何も書けないではないか?どこを、どのように修正したのか、言ってみたまえ!」と私は怒りを演出し、3度目の指示を繰り返した。

 

そして、震えながら部屋を出て行こうとする彼を、ドアの直前で「待ちたまえ」と呼び止め、「今、私に言われた指示を、復唱してみなさい」と言った。彼はほんの少しだけ口を開き、まったくトンチンカンなことを口走った。

 

   「いい加減にしたまえ!! もう一度座りなさい!!」

   「そもそも君は、なぜノートをとらないのだ!?

    頭に入らないなら、紙に書いておきたまえ!」

 

と叱り飛ばし、彼がカバンからノートと鉛筆を取り出すのを待って、指示を一つずつ、ゆっくり言い渡した。

 

最初の指示を言い終えて「分かりましたか?」と言うと「はい・・・」と答える。

だが、「今書いたメモを読みなさい」と言うと、「え?・・・」と不安顔になった。

 

そのまま読み上げるように命じたが、黙秘しているのでメモを取り上げた。滅茶苦茶な言葉の羅列である。文章になっておらず、意味をなさない。私が実際に口にした単語も僅かにあったが、字が違っている。「直交」は「直行」になっていた。

 

「こんなことを私がいつ言ったかね!?人の言うことはちゃんと聞きなさい!!」と言って、今度は一言一言、短く切って、復唱させながら書き取らせた。

 

・・・が、単語一つ復唱できない。

とうとう彼は涙目になり、私が言葉を口にするたびに、

 

   「・・・す、すみません・・・も、もう一度・・・お願いします・・・」

 

と言い出した。

 

書き取れるのは単語2つまでである。3つで区切ると、もう何も書けない。

 

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                ・

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それでも、ようやく聞き取る努力を始めた。 

 

それまでは、私が何を言っても、彼が受け取っていた情報は「まだダメ」ということだけだった。

 

第1回目の記事で、私は「何の話か」が重要だと書いたが、彼にとっては、「これで終わりにできるかどうか」の1点のみが「何の話か」だったのである。最初からそれ以外の情報には関心がなく、それだけを、私の顔つきや語気から読み取ろうと、顔色を伺っていた。

 

 

 

生活習慣病

 

 「聞き流す」という表現がある。

音声は耳に入るが、意味を無視しているのか・・・

音声そのものを、すでに無視しているのか・・・

  

いずれにしろ、私の観察では、言葉から情報を正しく受け取れない(受け取らない)人々は、能力に原因があるわけではない。誠意をもって耳を傾ける、誠実に答える、という習慣を持たない。

 

 

「他人の言うことを聞く」という表現は、日本語では「従う」という意味を持つことが多い。この場合の「聞く」とは、指示の内容やその意味を理解し、指示に従った行動をとることである。

 

しかし、強制のための強制を長いこと強いられていると、意味を考えなくなる。

 

馬鹿馬鹿しい、と思っても、強制力が強ければ従わざるを得ないので、具体的に自分がすることだけを知ればよい。意味を考えても始まらない。「キョーツケ!前へ倣い!」と言われれば、条件反射的に手を前に出す。江戸時代の寺子屋での漢文の素読や、現代の苦悶式も、同じである。

 

強制力が弱ければ・・・単に無視すればよい。  キョーツケ!前へ倣い!  と言われても、ポケットに手を突っ込んでぶらぶらしていれば、それで済んでしまう場合もある。

 

聞くにしろ読むにしろ、意味を考えない習慣は、このようにして付いて行く。

 

 

 

反抗的な態度を示す学生は、実は情報を正しく受け取っている。その上での反抗である。赴任した当初、「教科書の計算を、自分の手で全部フォローしないと、何も理解できなくなりますよ」と注意すると、

 

   「僕たちが、一日に何時間授業を受けていると思ってるんですか!

    そんなこと・・・いちいちやってられるはずがないでしょう!」

 

と食って掛かる学生がいた。

 

   「そうだね・・・確かに日本の大学は、授業が長すぎるね・・・

    まあ、上手にやりなさい・・・」

 

と言うと、面食らった顔をして、反抗的な態度は示さなくなった。その学生は、少なくとも私の授業については、計算をきちんとフォローするようになり、理解度は短期間に向上した。

 

 

反抗的な学生は、比較的対応が容易である。あくまでも反抗的な学生もいるが、どの教官も接触を希薄に保つので、人知れず退学に至る場合が多い。 

 

反抗的な態度を見せない成績不振者は、対応が難しい。レポートの内容等は、反抗的な学生と区別がつかない。私は「いかなる説教も指示も無視して、ポーカーフェイスを貫く強靭な意志を持っている」と見做していた。

 

が、私がメモを取らせた学生は、強靭な意志を持っていたわけではなかった。強制力は弱いと判断し、指示を無視していた。そして、無視をしているという自覚が失われ、情報を受け取らないことが習慣化していた。このような者が存在することを、このレポートの件で、初めて実感した。

 

 

 

対応を考え直さなければならない・・・

私の試みた対応については、次回に改めてお話ししよう。

 

  

 

言葉の重要性2-ドイツのディクテーション

 

 

 

前回の記事では、多くの日本人が文章から情報を正しく読み取ることが出来ない、という読解力調査(RST)の結果を紹介し、その結果について、「特に驚いていない」と述べた。

 

さらに、調査を行った国立情報研究所の新井教授の分析とは異なり、日本に特有の現象であろう、とコメントさせて頂いた。

 

これに関連して、私の体験をいくつか紹介したい。主に聞き取る能力についてであるが、読解の能力とも関係が深いはずである。

 

 

 

あるドイツ女性の不満

 

帰国してからしばらくして、私とオトメは、あるドイツ人女性と知り合った。年代は私達より少し若く、西ドイツの大学に留学していた日本人と結婚し、私の勤める大学のある町に移り住んでいた。

フランスとの国境に近い地方の出身で、ドイツ語の他に完璧なフランス語と英語、そしてスペイン語を自由に話す。日本語はさすがに難しいらしく、まだカタコトであった。

 

 

私はこの女性に、短期間だけドイツ語会話を習った。その時、彼女の娘は小学校に通い始めていたが、彼女は雑談の際に、日本の学校教育について愚痴をこぼした。

 

 「日本の小学校は、どうしてディクテーションをやらせないのかしら・・・

  私の娘は、ちっとも言葉が上達しない」

 

彼女は平仮名しか読めず、娘とはドイツ語で会話していた。

 

 「私は小学校といったら、ディクテーションしか思い出せないくらい・・・

  毎日毎日、そればかりよ。とても大切なことなのに・・・」

 

ディクテーションとは、単に話された言葉を、そのまま書き取る作業である。私は、ドイツのギムナジウムでこれを厳しくやらせることは知っていたが、その実態までは知らなかった。

 

私は彼女に、「日本語には漢字があるので、子供にそれをやらせると時間が掛かりすぎて、現実的でないと思う」と説明し、彼女も一応納得した。彼女も漢字に苦しんでいたのである。

 

 

 ディクテーションをする理由

 

それにしてもドイツでは、何故そこまで、ディクテーションばかりやらせるのか・・・

 

 「ドイツでは何のために、そんなにディクテーションをさせるのですか?」

 

と尋ねると、彼女は驚いた顔をして、私の顔を見つめた。ここは、彼女は日本語で言ったような気がする。

 

 「ナンノタメッテ・・・キマッテルジャナイ、ヒトノハナシ、キクタメヨ!」

 

今度は私が衝撃を受けた。私はそれまで、ディクテーションは子供たちがスペルを覚えるためだと思っていた。それでは効率が悪すぎると思って聞いたのであるが・・・

 

 「人の話を聞くため?? そのためだけに、そんなに毎日毎日、それ以外の

  ことを思い出せないほど、やらせるのですか?」

 

 「もちろんよ!それをちゃんとやって、人の話を聞く習慣をつけなければ、

  授業が理解できないでしょう!」

 

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真っ赤なカメ

 

私はかなり動揺し、家に帰って、息子のカメにやらせてみた。

 

適当な文章を読んで書き取らせる。

すると、全く・・・ではないが、私の予想をはるかに下回る、ひどい状態である。

私は声を荒げ、「そんな辻褄の合わない話のはずがないだろう!」「話が正反対じゃないか!」「ひとつひとつを、ちゃんと聞け!」など、あらゆる叱責の言葉を浴びせた。

 

カメ自身、焦りを感じ、顔を真っ赤にして集中しようとしていた。これほど大変な事とは、思っていなかった。彼の集中力が限界と感じた私は、本人に自覚させる他はないと、叱り言葉を言い捨てて部屋を後にした。

 

私もショックであったが、本人も

 

  「・・・オレ、自分がこんなにバカだったとは思わなかったよ・・・」

 

と、オトメの前で泣きべそをかき、それから毎日、オトメに読んで貰い、私に隠れてこっそり練習を始めた。私も帰宅すると毎晩、追加のトレーニングを続け、2週間ほどすると、あまり問題なく書き取れるようになった。

 

それ以来、カメは人の話を聞くときは、真剣に聞くようになった。

 

 

(続く)

言葉の重要性1

 

 

 

最近のテレビ番組で、RST(リーディング・スキル・テスト)という読解力調査のことを知った。国立情報学研究所の新井紀子教授により進められたプロジェクトである。

 

検索 したところ、昨年中にすでに発表されていた。物議を醸したようだが、私は知らなかった。「はてなブログ」では、東京百舌さんが詳しく書かれている。

 

「子供教育の注意事項」のシリーズで、いつか言葉の問題について書こうと思っていたので、この機会に少し書かせていただこう。RSTについてのこれまでの経緯は殆ど承知していないが、反論やコメントに対しては、誠実にお答えしたい。

 

 

調査で用いられた文章

 

RSTは中高生を主な対象としているが、社会人も被験者になっている。かなり広い年齢層をカバーしており、その調査結果は、「日本人が日本語を正しく読めていない」というものである。

 

新井氏はAI(人工知能)の専門家で、調査はその研究の一環のようである。米国の番組「TED」にも登場し、素晴らしいプレゼンテーションをしておられた(東京百舌さんの記事に動画が埋め込んである)。

 

まず、テレビの番組でも紹介されていた問題文の例を示そう:

 

 

例1 「メジャーリーグの選手のうち28%はアメリカ合衆国以外の出身の選手である

    が、その出身国を見ると、ドミニカ共和国が最も多く、およそ35%である」

 

設問は、ドミニカ出身の選手が「メジャーリーガーの28%の中の、さらに35%である」ことを理解したかどうかで、正解者は中学生で12%、高校生で28%弱であった。

  

 

例2 「アミラーゼという酵素グルコースがつながってできたデンプンを分解する

    が、同じグルコースからできていても、形が違うセルロースは分解できない」

 

設問は、

 

    「セルロースは(     )と形が違う」

 

という穴埋めを、4択で選ばせている。私の訪れたサイトでは正答率が出ていなかったが、新聞社の論説委員から経産省の官僚までが、なぜか「デンプン」ではなく、「グルコース」を選んだそうである。 

 

  

 

不適切なツイート

 

 この調査結果に今さら驚いたわけではない。この程度は30年も前から、私が職場で経験していた。これが特別でなかったことを確認したにすぎない。 

 

 

失望したのは、「問題文が不適切である」とツイートする人々が目立ったことである。

 

「こんなの、わかんなくて当たり前だろ」

「こんな風に書く方が悪いよ」

 

・・・と素朴に感情を呟くのは可愛げがある。

 

が、「書き方を変えれば読み違えは起きない」などと物知り顔の主張には、驚きを禁じ得ない。「読解力の調査」をしているのである。論理的に正しくても意味の無い主張がある。議論は何を問題にするのかが、つまりwhat が重要である。

 

特定の問題文を取り上げて、解答が一意的に導かれない、と厳密に「論証」しようとする人まで現れた

 

私は常識という言葉は好まないが、普通に読めば、誤解の余地の無い文章であることは明らかである。文章は、読み手が合理的な判断をすることを前提に書かれるものである。

 

読み違いは誰にでもあるので、自分にとって重要でない文章を読み違えても、さして気にする必要はない。しかし率直に言って、これらを注意深く読んでも、正しく情報を読み取れないならば、少なくとも科学技術の分野では仕事ができない。科学技術に限らず、どの世界でも、責任ある立場で仕事をすることは難しいと予想する。

 

仕事上の文章は、正確さと同時に、簡潔さも要求される。学生時代の教科書に始まり、私たちが読む文章が、調査に使われた問題文より明快であることは望めない。

例えば、例2の問題文は、理科の教科書から採ったと思われるが、教科書の執筆にはかなりの人数が関わっており、いずれも一流の研究者である。これで情報を正しく受け取れなければ、学習すらできない。

 

解答が一意的に導かれない、などとと論証することは、(仮に論証が厳密でも)全く意味がない。

 

  

 

新井教授の分析と私の疑問

 

この調査を行った新井教授の本来の目的は、AIの研究なのであろう。調査結果についても、「人々がAIと同様の読み方をしている」と分析して、AIと比較した例を挙げておられた。 そして、AIと同様の思考しかできない人々は、近い将来、AIが職場に進出すれば職を失う、と警鐘を鳴らす。 

 

新井氏が述べておられることは、私が上にストレートに書いた内容と基本的に同じと思える。単に表現を和らげるために、AIを引き合いに出しておられるのか・・・とすら考えてしまった(これは私の思い過ごしであろうか?)。

 

 

新井氏の分析は、AIを〇〇と置き替えても、内容が変わらない。

〇〇には、任意の不適切用語を入れることができる。

 

「〇〇と同じ仕事しか出来ない人は、近い将来、仕事を失う」と述べておられるが・・・

 

「〇〇=AIでなければ(つまり安価で労働市場に進出して来なければ)心配ない」という問題ではない。

 

 

私は、「問題文を読み違えた人々は〇〇である」と示唆しているのではない。

結果の一致は必ずしも原因の一致を意味しない。

人がAIと同様な解答をしているからと言って、脳がAIと同様の働き方をしているとは限らない(私には、それは不可能に思える)。

また、仮に人々の脳が結果的にAIと同様の働きをするに至ったとしても、AIの研究でその原因がわかるわけではないので、原因については、別途考えなければならない。

 

 

 

真の原因はどこに?

 

原因について新井氏は「スマホ検索により、人々がAIと同じ読み方をするようになったため」と指摘しておられる(AIの文章読解は検索システムと同じアルゴリズムを使用している)。したがって、 「これは日本だけの問題ではない」と強調しておられた。

 

他の国々での調査結果を待ちたいが、私は今のところ、これに同意しない。私はスマホやPCが普及する以前から、若者の言語能力を憂慮していた。これには日本特有の部分が大きいと感じている。    

 

読み違えが多いという事実は、無意味なツイートが多いことと、原因が共通する。どちらも、「何の話か」に重心を置いていないために、全体像を見失っている。

 

これらの点については、私は今まで、色々なところで書いて来た。論語読みの論語知らずや苦悶式が容易に普及する、日本社会に独特な背景である(「子供教育の注意事項」シリーズの(6)(8)、とくに(9)など)。 

教育現場で暮らした私の観察では、日本に特有な誤解の主因は「whatに関する無関心」である。そして、それによって派生する「意味を考えずに読む習慣」である。

  

例2はその典型である。話を進める前に、もう一度、文章を書いておこう:

 

  「アミラーゼという酵素グルコースがつながってできたデンプンを分解する

   が、同じグルコースからできていても、形が違うセルロースは分解できない」

 

 

(1)whatに関する無関心

 

まずこの文章が、「何の話」をしているかであるが、ここでは「消化酵素が分解できる栄養素はそれぞれ異なる」ということである。これをわきまえた上で、問題文を

 

  「※※※は・・・¥¥¥を分解するが・・・$$$は分解できない」

 

と読めば、「$$$は(   )と違う」という穴埋め問題には、〇〇でも答えられる。素人考えではあるが、この程度の読解能力は単純な論理判断であるので、現在でもAIに組み込めると、私は思う(近い分野を専攻する友人によると、初期の人工知能には、このような論理判断は組み込まれていたということである)。   

 

 

(2)意味を考えずに読む習慣

 

次に、誤解をした解答者が「意味を考えて読んでいるか」であるが、この問題文は、分子構造の概念を持たなくても意味が理解できるように書かれている。予備知識の不足ではなく、栄養物質の成り立ちにも消化のメカニズムにも関心を持たないために、誤解が起こるのである。

 

自分の人生に関係ない文章を、関心を持って読め、と言っても難しいかもしれないが、新しい知識に接する際に、「へえ、そうなのか」という小さな感動は大切である。

 

 「アミラーゼという酵素・・・     へえ、そんな名前の酵素があるのか・・・

 

 「グルコースという物質が繋がって出来たデンプン・・・

                   ふーん、デンプンはそんな構造なのか・・・

 

 「アミラーゼは・・・デンプンを分解する・・・ 

            そういう酵素なんだ・・・きっと、グルコースに分解するんだな・・・

 

 「同じグルコースから出来ていても・・・セルロースは・・・

                    へえ、セルロースはデンプンと似てるんだ・・・

 

 「・・・ても、形が違う・・・    ん? グルコースの繋がり方が違うのかな・・・

 

 「アミラーゼ・・・は・・・セルロースを分解できない・・・

                       ・・・繋がり方が違うと分解できないんだな・・・

 

 

短い文章でも、読むときには、ほぼ無意識にこの程度の思考が並走するはずである。読むということは、このような同時進行の思考過程を含む行為である。これ無くしては、人の言葉は理解できない。要するに、「読み違えた」のではなく、「読んでいない」のである。

 

知的好奇心、などというと大袈裟だが、what に焦点を合わせる習慣を失うと、日常の小さな好奇心は失われ、意味を考えながら文章を読むことをしなくなる。

 

 

 

AIは(今のところ)意味を考えることはできないようなので、その点では、私の言っていることは、単に新井氏の分析を解説したに過ぎないかもしれない。

 

次回から、私の体験談を紹介しながら、もう少し考えてみたい。

 

 

(続く)

 

2018年7月12日

 

 

 

 ひと口笑い話: 諺を良く考えよう8

 

   ? 「大は小を兼ねる」

 

     金持ちは貧乏人を兼ねる

     老人は若者を兼ねる

     大学は小学校を兼ねる

         

         ・

         ・

         ・

 

   忠告:      特殊な場合に成り立つ公式を一般化してはいけません

                            特に、最後のだけはやめてください

 

 

 

2018年7月8日

 

 

ひと口笑い話: 5・5・7・5 川柳   ダスキンシリーズNo4

 

    ダスキンを 

       呼ばないと 

       そろそろですねと 

       電話来る

 

      (字余り)

 

 

    注: さすが商売・・・

 

2018年7月5日

 

 

 

ひと口笑い話: ミニ言語学23

 

     英語       中国語

        buy                             買

 

 注: たぶん新説ではないでしょう・・・