浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

~記事へのコメントは歓迎です~

英国人の色彩感覚1

 

 

環境は人の色彩感覚を支配する。

天候や自然の風景は、当然ながら影響する。そして私の印象では、それ以外にも、生活スケールの違いが、色彩感覚に大きく影響する。建物の大きさや道路の広さ、部屋の広さ、それによる人間同士の距離の違いなどである。見る距離が異なれば、色のバランスや模様の見え方にも差が生ずる。大きさと色彩は深い関係にある。

 

 

自然の色 

 

英国の自然については以前に書いており、また「英国の季節感」およびでも、少し付け足した。 

 

暗い冬が長い英国も、季節の良い時は別世界となる。郊外はすべて、グリーン一色で、その面積は広大である。 

 

市街地では、どこにでも芝生が植えられている。その面積も広い。家々の庭だけではなく、ホテルや公園、学校、教会などの公共の施設でも、黒い土がむき出しになっている場所は少ない。西洋芝は冬場でもグリーンの色を失わないが、夏場にはさらに庭木や街路樹の葉が加わり、体積的にも緑は多くなる。

 

背の高い街路樹には、ライムが多く使われている。どの町にも必ず、「Lime tree road 」と呼ばれる、日本のケヤキ並木のような道路が一本はある。私のお気に入りは、比較的背の低い、アーモンドの並木であった。日本のハナミズキにやや似ているが、この程度の高さの街路樹は、歩道の縁に敷かれた芝のグリーンベルトに植えられている。花が咲くとピンクの色が緑に映え、晴れの日の街並みは大変に美しい。

 

 

 

衣服の色 

 

このような環境の中で、衣服としてはどのような色彩が適するか? 

英国人は、洋服に無地の原色に近い色を使うことが多い。これは折柄に凝る日本人の衣服と大きく異なる。

 

そして子供や女性の衣装は、春になると、生地も色も、透けるような淡いものが多くなる。この季節の子供の姿は自然の背景に溶け込み、存在感が希薄で、消えてしまいそうに思える。妖精のようだ。

 

その中を、漆黒のアフリカ系が歩いて来ると、おそろしく存在感がある。これほどではないが、東洋人の黒髪も、なかなかの存在感である。

 

 

衣服における日本人の色彩感覚は、近距離の生活の中で発展してきた。「日本人は非常に高級な服を着ている」と、しばしば言われた。これは殆どの場合、日本を訪れ、その距離感の中で実感した人の印象である。日本人の服(特に紳士服)は色彩を過度に強調せず、折柄に凝っている。それは近くで見ることで認識され、そこで初めて、その精巧さと高級感に驚く。

 

しかし、この日本人の服は、環境のスケールが大きくなると、濁色にしか見えない。細かい折柄が災いして、ボロを纏っているようにすら、見えてしまうこともある。英国人は身なりで人を判断する習慣があるので、遠くから一目でわかるような、はっきりした色の服が無難である。 

 

私の場合、最初は典型的な日本人の服装であったが、これがトラブルの原因になり得ることが、次第に分かって来た。例えばレンタルショップで、理由を告げずに製品のレンタルを断られたことがあった。 銀行に口座を作る際も、Y教授が同伴でなければ、断られていた可能性が高い。

 

そこで私は、外出する際には、オトメの父親にプレゼントされた上着を着用するようにした。濃いグリーンのベルベットで、非常な高級品であったが、余りの派手さに、日本では出番の無かった服である。服飾関係の仕事をしていた義父は、特殊なルートでこの生地を入手し、(家族の反対にもかかわらず)こっそりテーラーにオーダーした。彼は結婚前に私のためにスーツを注文していたので、テーラーはその際に私を採寸していた。

 

それが役に立った。着用したところ、その効果はてきめんで、人々の対応は驚くほどの変わりようである。漱石先生には申し訳ないが、日本人は海外では、赤シャツを着る程度で、丁度良いようである。

 

 

 

色のジェンダー

 

赤シャツの話が出たついでに、日本人に特有と思われる色彩感覚の話をしよう。

 

帰国して日本の大学に勤務するようになってから、私より数年遅れて、カナダで長年研究を続けていた女性が、別の学科に着任した。年度最初の学部教授会で、彼女は私の隣の席に座り、赴任の挨拶をした。教授会の解散後、歩きながら会話をしたが、私が英国帰りと聞いて、彼女は小声で

 

     「この大学のトイレ、ひどいですね・・・ 

      先生は最初、お困りになりませんでした ?」

 

と私に同意を求めた。

 

衛生状態の問題かと思ったら、そうではない。この大学のトイレには、男女それぞれの出入り口に(西部劇の酒場のような)腰高のスウィングドアが設置されている。そして男性・女性の表示はどこにも無く、このアクリル製の扉が、グリーンとオレンジに色分けされていた。

 

私は何の抵抗もなく、最初から色の違いを性別の違いと捉えていたが、この先生は長い海外生活で、その感覚を失くしていたのである。

 

 

色に性別があるのは、日本だけであろうか?

 

その後、色々な国の人々に何度か尋ねてみたが、暖色系・寒色系などの感覚は多くの国々で共通しているものの、色に性別を感じる人々はいなかった。男性の赤シャツや赤いセーターは、ごく普通である。

 

ただ「幼児色」という感覚は、多くの国々に共通しているようだ。ピンクや淡いブルー、黄色などが、子供の色として、玩具や幼稚園の建物などに使われる。

 

 

 

ちなみに、年齢ということで言えば、子供は赤い色を好むという話を聞いたことがある。この話は、私には良く当てはまっていたので、大いに納得した。子供の時には、赤鉛筆や消防自動車、郵便ポストなどは、大いに私を惹きつけた。そして小学校に入学する時、赤いランドセルを欲しがり、両親を困らせた。幼稚園に通っていなかった私は、男の子が赤いランドセルでは、なぜいけないのか、理解できなかった。

  

精神年齢が低いせいか、私は今でも赤い色を好む。

赤シャツも1枚持っている。 

 

 

 

 余談:戦闘服 vs フリル

 

年齢の話の続きになるが、以前、「日本人の亭主」に登場してもらった御近所のブラジルの奥さんは、英国人女性の服装を「子供みたい」と笑い、オトメに同意を求めていた。

特に、多用されているフリルについて、「あの『ひらひら』は、何のつもりかしらね」と軽蔑口調であった。オトメは例によって、スマイルでかわしていたが・・・

 

上にも書いたように、英国女性の衣服は、特に春になると、生地も色も透けるような淡いものが多くなる。これは確かに、子供の服装と似通っている。細かいフリルなどの装飾も女の子の服装に多く見られるので、紳士服に比べると、子供服との共通点が目に付く。彼女の眼には、これが滑稽に見えたのであろう。

 

彼女はルーツがアフリカ系の女性で、やや褐色の肌であった。そして普段の出で立ちは、迷彩服に皮のブーツを履き、そのままマシンガンを携えて戦地に赴けるような、勇ましいファッションであった。当時のブラジルの流行だったのだろう。

 

あるとき私達は、大学主催のパーティで同席した。招待される機会が多いことを承知していたオトメは、日本を出るときに、ワンピースの訪問着を数着持って来ていた。

 

この席に、ブラジル夫人は普段の迷彩服姿で登場した。

 

英国人は自由なライフスタイルをモットーとするが、フォーマルな席は区別する。彼女のファッションは異彩を放ち、話しかける人も少なかった。

 

自分が完全に浮いていることを自覚し、さすがの彼女も気後れして、私達をちらちらと見る。オトメの服装は、微かに日本的な香りがするものの、ところどころにフリルもあしらわれ、英国女性と大きくは変わらない。周囲に自然に溶け込んでいた。

オトメにも裏切られ、彼女はかなりショックを受けた様子であった。

 

彼女はスカートを履き、女性用のシューズを着用するようになった。

不慣れな出で立ちで、いかにも居心地が悪そうである。長くは続かなかった。

彼女には、やはり戦闘服とブーツが似合うようであった。

 

 

(続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年 元旦

  あけまして、おめでとうございます

  本年もよろしくお願い申し上げます

 

    

    早速ですが・・・

 

    ひと口笑い話: ミニ言語学32

 

        英語    日本語

        マム            まんま

 

    言語学者によると、「母親」と「食事」が m の音で

    始まるのは、世界共通だそうです(母親=母乳=食事)

    新年早々なので、真面目な話。

    

 

イスラムの妻たち

 

 

イスラム圏の多くの国々では、まだ教育の体制が整っていない。そのため、これらの多くの国々では、英国の大学に留学することがステータスとなっている。私は英国滞在中に多くのイスラム圏の知人を得た。

 日本人の夫英国人の妻について書いたので、滞在中に見聞した範囲ではあるが、次にイスラム圏の人々について書こう。

 

 

一夫多妻論

 

イスラムの一夫多妻は良く知られているが、実際には複数の妻を持つ男性は多くない。4人の妻を持つ男の話を以前に書いたことがあるが、私が直接知っている範囲では、複数の妻を持つ者はいなかった。

 

彼等の一夫多妻と日本の亭主関白は、しばしば話題となる。イスラム圏と日本の女性は、虐げられた気の毒な存在である、とヨーロッパでは(日本でも)しばしば報道される。実際のところはどうであろうか。

 

これはオトメから聞いた語学教室での出来事である。

彼女の通っていたボランティアの語学教室は、平日の昼間に開催され、参加者は全員女性であった。この教室に2人のイスラムの妻が参加しており、一夫多妻が話題になったことがあった。

 

彼女たちの夫は、いずれも妻は一人であったが、彼女たちの話によると、妻が複数の場合は、年長の妻が姑のような役割を果たして家事を指導するそうである。仕事が分担されるので楽であり、殆どの場合は仲良くやっている、とのことだった。年長の妻は、若い妻に夫を懐柔するコツなども伝授するそうである。

  

ヨーロッパの国々からの参加者は口々に「信じられない」と顔を見合わせ、当然のように一夫多妻を批判した。男性ばかりが自由で、女性の自由の無い彼女たちの国を・・・

 

ところが、イスラム女性に同情していたつもりが、イスラムの妻たちは自分たちの国を侮辱されたと感じて猛反発し、大激論に発展した。彼女たちは

 

 「あなたたちの自由って、何よ! イギリスの女みたいに、男を

  しょっちゅう取り換えて、結婚してからも自由に不倫すること!?」

 

 と、教師までも反撃の対象として論陣を張る。

 

信念を持つ人々は強い。家庭と社会の秩序について、実績に裏付けられた絶対の自信を持っている。論理には1分の隙もなく、堂々たる態度で一歩も引かない。

ヨーロッパの女性たちは、家庭と社会の秩序に自信を欠く上に、個人的にも身に覚えのある痛いところを突かれ、たじたじとなった。オロオロとオトメの顔色を伺うが、彼女のスマイルは、どうも自分たちに味方しているように見えない。結局、ヨーロッパ勢は総崩れとなった。

 

争点のはっきりしたディベートの実戦訓練となり、語学教室の授業としては、大変に充実した一日だったようである。

  

 

 

客のもてなしは男の役割

 

ある夜、緊急に帰国することになったアラブの友人から、電話があった。電話は空港からである。ある男と翌朝に会う約束をしていたが、会えなくなったので、彼の家を訪問し、状況を伝えて欲しい、ということである。その男の家には電話が無く、私が直接訪問するしかないとのことだった。

 

夜のかなり遅い時間であったが、私は大至急、教えられた住所へ向かった。到着すると、家の明かりはまだ灯っていたので、躊躇はあったが、思い切ってドアベルを鳴らした。

 

男が私を出迎えた。すでに寝支度と思える出で立ちであったが、彼は私が話し出す前に、まず私を家に迎え入れた。子供たちを風呂に入れていたと思われる彼の妻が、部屋の奥に見え、目が合った。子供たちの髪はまだ濡れており、バスタオルを使っている最中である。遅い訪問の詫びと挨拶を述べようとしたが、彼女は私の姿を認めると、すぐさま小さい子を抱きかかえ、他の子供たちを連れて素早く階段を上り、2階へ姿を消した。

 

男は私にソファーを勧めると、キッチンへ行き、自ら茶を立てて運んで来た。そして初めて私の話を聞いた。話を聞き終わると、彼は礼を述べ、私たちは改めて互いに自己紹介をして、短時間ではあるが、世間話をした。その途中、これも短時間であるが、「お祈りをする時間を許して欲しい」と言って、50cm四方ほどの小さな布の上に座り、祈りを捧げた。帰り際は私を玄関まで送り、訪問の礼を再度、丁重に述べ、私を送り出した。

 

それまでの間、2階からは、子供の声はおろか物音ひとつ聞こえてこなかった。「日本人の妻」に劣らず、イスラムの妻の行動もまた見事である。

 

 

 

余談

 

これもボランティア英会話教室での出来事であるが、参加していたインド人の女性が「自分の村では、夫が死ぬと、妻も一緒に火葬にされる風習がある」と言ったので、教室は騒然となった。「本当に、今でもそんなことやっているの?!」という口々の質問に、「最近の例では昨年にあった」と答えたそうである。これでは、金持ちの年寄りと結婚するのは、決してうまい話ではない。

 

 

そういえば、息子のカメと一緒にストーリー・テラーを読んでいた時、アラビアン・ナイトの似たような話があった。こちらはインドとは異なり、先に死ぬのが妻でも夫でも、2人同時に埋葬されるという国の話である。ストーリー・テラーは原作に忠実なはずなので、元々インドの風習を男女平等にアレンジして書かれたものかもしれない。

 

船が難破し、シンドバッドが見知らぬ国の海岸に漂着する。意識を失って倒れていた彼を見つけ、介抱してくれた男と親友になり、彼はその国にしばらく滞在する。やがてその男の妻に若い娘を紹介され、結婚する。すっかりその国が気に入り、仕事も見つけ、定住する気でいたところ・・・1年後に彼女が突然亡くなる。そして悲嘆にくれるシンドバッドに、さらに恐ろしい事態が訪れる。

 

その親友に助けを求めると、なんと

 

   「そりゃ、彼女が死んだんだから、君も死ななきゃいけないさ。

    オレだって、この女房が死んだら、もちろんそうするぜ」

 

と夫婦そろって、平然と答える・・・

 

もちろん、シンドバッドは、何とか逃げおおせた。逃げるついでに財宝を手にし、次の冒険に旅立つ。

 

 

 

 

 

2018年12月16日

 

 

ひと口笑い話: ミニ言語学番外編

 

 

   帰国した頃の親子の会話(ノンフクション)

 

    カメ : 「Bo」と言うのに「ほ」に点々をつけるのは、間違ってるよ!

 

    オトメ: ・・・? じゃあ、本当はどうするの?

 

    カメ : 「ほ」じゃなくて、「も」に点々だよ!

 

 

  そう言えば・・・

 

      漢字         読み方

 

     馬     「Ma」 および 「Ba」

     美     「Mi」  および 「Bi」

     無     「Mu」 および 「Bu」

     母     「Mo」 および 「Bo」   

 

 

  残念ながら、「Me」および「Be」が見つかりません・・・

英国人の妻

 前回は日本人の亭主の話をしたので、今回は英国人の女房の話をしよう。

 

英国人の夫婦は共働きが殆どである。夫の収入のみで生計を立てられる家庭は限られる。大学のスタッフは、教授以外はすべて、奥さんも仕事を持っていた。ちなみに、英国の大学では教授はごく少数である。日本の大学の学科長(日本では持ち回りであるが)に相当すると考えてよい。上級講師が日本の教授、講師が准教授に相当する。

 

看護婦さんであったY教授婦人は、子供に手がかからなくなってからしばらくの間、パートタイムで仕事を続け、やがて専業主婦となった。ビクトリア朝時代の大きな邸宅に住み、その管理も大変であったと思う。庭など、家の外回りの管理は主に男性の役目であるが、Y教授が学部長に就任してからは、彼女の仕事量が増えていた。共稼ぎの期間は、妻の発言力も高いと思われるが、専業主婦となると夫の権力が増すように感じられる。あくまでも私の個人的な観察であるが・・・

 

 

夫の指示

 

Y教授の車が、ある日、走行中に煙を噴き上げ始め、そのまま廃車となった。

自慢のブリティッシュ・フォードであった。およそ10年使用し、英国車は信頼度が高い、と常に言っていたが・・・

英国では、煙を噴き上げながら走る車を目撃するのは、日常のことであった。 

 

当時、大衆車で10年走る車は日本車だけであった。日本車はメカが元気でも、冬場に道路に撒かれる塩にボディがやられ、ぼろぼろになる。しかしボディの穴を充填剤で補修しながら何とか持たせれば、10年後もまだまだ走れるので、庶民には人気が高まりつつあった。

 

学部長の仕事に忙殺されていたY教授は、夫人に新しい車を選び、購入するように言い渡した。折しも、新車登録にかかる諸費用(税金)が大幅に値上げされることになり、急ぐ必要があった。多くの人々の駆け込み購入のため、ディーラーは大忙しであった。

 

Y教授は6000ポンドの現金を夫人に渡し、購入はその範囲で賄うこと、出来るだけ5000ポンド以内に抑えること、そして新車登録を間に合わせるように、と指示した。

日本の家庭では、妻が財布の紐を握っている場合が多いが、英国は全く逆である。妻に家計を任せると破産する、というのが大方の認識のようだ。6000ポンドは当時のレートで、およそ250万円であるが、工業製品は日本より遥かに高い。この金額で買えるのは、日本では半額程度の車種になる。Y教授は高級車を買う意志は全くなかった。

 

夫人はブリティッシュ・カーを中心に探していたが、コスパの良い車を探しあぐねていた。教授の渡した金額では、ミニ・クーパーのような、ひどく小さい車にならざるを得ない。当時のミニ・クーパーは、現在日本で走っているモデルよりかなり小さく、ほぼ昔のスバル360に近かった。

 

新車登録の最終日の午前中に、Y教授から電話がかかってきた。夫人が車を探すのが難しそうなので、手伝ってやって欲しい、というのである。自分は会議の連続で全く手が離せない・・・

 

夫人は、友人から車を借りて私を迎えに来た。カタログを見せながら、どれかに決めたいが、どう思うか・・・と言うので、私は日本車のディーラーを訪問することを勧めた。最初から、その予算の範囲では、日本車以外の可能性は無いと私は考えていた。日本車に抵抗を示したが、渋々同意して、市内に2件あるダットサン(日産はこう呼ばれていた)のディーラーの一つに向かった。当時英国では、他の日本車メーカーは進出が遅れていた。

 

ディーラーは駆け込み需要に合わせて、最多販売価格帯の小型・中型車を多く用意していたが、殆どは売り切れ、数台を残すのみであった。豊富なサービスオプションを含めた低価格、燃費のデータを説明され、夫人の心は大きく動いた。その場で購入するような勢いであったので、私は店員の男に聞こえるように、教授に電話して同意を得る必要があるでしょう、と言って、一時保留にした。もう一軒のディーラーをチェックする時間が、まだあったからである。

 

2軒目のディーラーでは、同じ車種が1台だけ残っていた。殆どの人々はすでに登録手続きに向かい、客はいない。店員も、男性が一人残っているだけである。夫人は実に無愛想であった。男性の話を聞こうともしない(すでに聞いた内容であるが)。横を向いて「Give me your price」と繰り返すだけであった。

 

店の外には同じ車種の車がずらりと並び、かなり低い価格が表示されている。私が尋ねると、それらはヨーロッパの工場で製造されているので、品質において日本車としてのメリットは無い、と店員は答えた。そして、何度目かの「Give me your price」に対して、黙って提示価格を紙に書いて渡した。もう一軒のディーラーと競合しているのは明らかである。価格は1軒目の提示額より数百ポンド下がり、5000ポンドを大きく下回った。

 

 

妻の決断 

 

   「ねえ、タロー・・・やっぱり、ダットサンがいいと思う?」

 

と、夫人は受話器を置いて私に聞いた。てっきり決まりかと思っていたら、土壇場で雲行きが怪しい。本当に教授に電話している。何度も試みたが、ずっと会議中である。今のようなプッシュホン式ではない。もちろん、リダイヤル機能もない。ダイヤルを手でジーコン・ジーコンと回し、一回ごとに時間がかかる。

 

夫人が受話器を置き、ため息をついて私に聞くたびに、私は「気に入ったなら・・・」とか、「自分で納得するなら・・・」と、ボールを投げ返していた。登録は夕方の5時までである。そろそろ間に合わなくなる恐れがある。彼女が受話器を置いた何回目かの瞬間に、

 

     「もう時間がないので、決めた方がいいですよ」

 

とせかした。しかし、それでも 「Yes, I know  ... 」 と言いながら、またジーコン・ジーコンとダイヤルを回す。そして時計を見ながら、

 

   「ねえ、タロー・・・やっぱり、ダットサンがいいと思う?」

 

              ・

              ・

              ・

 

どうしても、自分の責任にはしたくないようである。自分の判断で大きな買い物をしたことが無いのだ。とうとう私は根負けして、

 

     「そうですね・・・それでいいと思いますよ」

 

と言った。彼女の表情がパッと明るくなり、

 

         「じゃ、そうする!」

 

と素早く受話器を手に取り、2軒目のディーラーに連絡し、購入の意思を伝えた。そして車で駆けつけて契約を済ませると、文字通りその足で(走って)市役所に駆け込んだ。市役所は新車登録の人々で溢れ、駐車場は満杯との情報であった。

 

まだ列が長い。間に合うであろう。最後尾につき、息を切らして夫人と話していると・・・私の訛りは誰でも気が付く。直前の男が驚いて後ろを振り向き、

 

    「あなたたち、ここで何をしているんですか・・・  」

 

と悲しそうな声を出した。顧客の手続きの代行にやって来た、1軒目のディーラーの男であった。

 

 

 

「 ・・・たのは・・・♪♪  貴方のせいよ  ♪♪ 」

 

登録を済ませてY教授宅に戻ると、間もなく教授が帰宅した。私は夕食を御馳走になることになっていた。実はこの時、オトメとカメは日本に一時帰国しており、私はチョンガーであった。

 

夫が帰るなり、夫人はいち早く玄関に駆け付け、私が口を開く前に

 

    「ダットサンに決めたのよ!タローがそうしなさいって・・・」

 

と素早く伝えた。「ダットサン・・・?」と驚いた教授は、「タローが・・・」が繰り返されたのを聞き、私の方を向いて、

 

         「Oh, you are to blame !」

 

と言った。すかさず夫人が、晴れやかな声で嬉しそうに「Yes! he is to blame !」と続ける。ルンルンの笑顔で私を見つめ、「ね!」という表情である。彼女の粘りに敗北した。受験英語で習ったこの表現は、こういう時に使うのか・・・

 

    「(もし何か問題があれば)タローがいけないのよ」

 

という意味であろう。問題が起きる前に使える表現とは思わなかった。

 

 

夕食は(オトメが試食用に差し上げた)日本のカレールーによるカレーライスであった。長い一日ではあったが、私にとっては、英語表現を一つ覚えたことが、唯一の収穫であった。

 

いや、もう一つ・・・

価格交渉で最も効果的なのは、仏頂面で「 Give me your price 」を繰り返すこと。

  

 

日本人の亭主

 

 

日本で

 

ある日、形勢逆転を狙い、レストランで食事をしながら

 

  「・・・ところで結婚する前に、言っておくことがあるけれど・・・」

 

と切り出した。私を見つめるオトメに

 

   「僕はフェミニストじゃないからね。亭主関白で行くよ。」

 

その刹那、

              「あはははは」

 

と笑い飛ばされた。彼女の超高速の反射神経は、先手をことごとく塞ぐ。その後も何度か聞かされることになった

 

        「だって、笑うしかないじゃない

 

というセリフは、この時が最初であった。

 

 

 

ゲストハウスにて

 

英国に渡り、キャンパス内のゲストハウスに住んでいた時、ハウスの住人にブラジルの一家がいた。

 

日系移民の多いブラジルでは、英語に直訳して「Japanese husband」という表現があるそうだ。いわゆる「亭主関白」を意味する。

 

本物の Japanese husband が隣人となり、当初ブラジルの奥さんは、興味津々だったが・・・

 

   「何だ・・・私達と全然変わらないじゃない」

 

とがっかりしたそうである。「どうして?」と尋ねると、

 

   「だって、タローは毎日、キッチンでお皿洗ってるじゃない・・・

    外からちゃんと見えてるわよ・・・」

 

 

 

自分でも、どうしてそうなってしまったのか、わからなかった。

 

 

 

Y教授宅にて

 

それから何年かして、Y教授宅のパーティに招かれた時のことである。私の他にも教室内の数人のメンバーが、夫婦同伴で招かれていた。楽しく談笑し、食後のコーヒータイムになった。この時、私とオトメはコーヒーではなく、紅茶を頂いた。

 

私は当時、紅茶には少量の砂糖を入れていた。一同は食卓からソファーに移り、そこに2人の紅茶のカップが運ばれた。オトメは私のカップに適量の砂糖を入れ、残りを自分のカップに入れた。彼女にとっても、それが適量である。そして、まず私のカップをスプーンで掻き回した。

 

ふと、奇妙な沈黙が流れていることに気が付いた。人々の視線がオトメの動作に注がれている。男性は皆、何となく鼻の下が伸びたような不思議な表情をしていた。女性の方は何となく、眉が・・・

 

 

突然、Y婦人の鋭い叫び声が、静寂を切り裂いた。

 

  「 オトー!! What are you doing !? 」

 

私たちが驚いて夫人の顔を見上げると、

 

  「タロー、あなたは、そんなことをオトメ

  にさせるの!? いつもさせてるの!? 

  なぜ自分でやらないの!?」

 

と恐ろしい剣幕である。突然のことに目をパチクリさせていると、

 

  「なぜ黙って見てるの!自分でやりなさい!

   オトはあなたの召使いじゃないのよ!!」

 

私は苦笑しながら、両手を広げて肩をすぼめた。余裕をかましたその態度が、火に油を注いだ。Y婦人は再びオトメの方を向き、

 

  「オト! 大体あなたが ・・・あ、まだやってる・・・ 

 

        オト、やめなさい!!

 

       タロー!! 早く自分で!! 

 

      ・・・!!    

 

 

Y夫人は、遂にはオトメの手を掴み、阻もうとした。が、すでに砂糖は完全に溶けている。私はカップをゆっくりと口に運んだ。

 

 

 

ティータイム

 

翌日の職場のティータイムに、パーティに同席した3人の男性が、ティーカップを持って私の隣に集まってきた。私に色々と聞きたがっている。

 

    「日本人の女性は、誰でもあんなふうに、するのか?」

 

    「誰でもと言う訳ではないと思うけど、まあ、外ではね・・・

     一種のパフォーマンスだよ。期待される女性を演じる・・・

                  家の中では、また違うよ」

 

    「中と外で違う? ふ~ん・・・

     で、君の奥さんは、家で君のことを何て呼んでいるんだ?

     やっぱりファースト・ネームで、タロー、と呼ぶのか?」

 

 

この質問は、それまで数えきれないほど多くの人からされてきた。

 

    「いや、それはやらない。タローさん、と「さん」を付ける。」

 

日本人が尊称に「さん」を付けることは、殆どの人が知っている。

 

    「ふ~ん、「タローさん」か・・・

     君も奥さんを呼ぶとき、「さん」を付けるのか?」

 

    「いや、僕から呼ぶときは、そのままファースト・ネームだ」

 

へえ、と彼等は顔を見合わせた。「タローさん」は実はあまりやらず、家では「あなた」と呼ばれることが多い、と付け加えた。すると納得顔で「アメリカ人の My darling  と同じだな」と言うので、またややこしいコメントが必要となる。「あなた」はyouの尊称であること、日本語にはyouの尊称に多くの段階があること・・・

 

「あなた」とは、どういう意味なのか、「うちの主人が・・・」などと言うときの主人とは、どういう意味なのか・・・

 

元々の意味はほとんど意識されていない、と、くどいほど強調しても、やはり無理に対応させようとすると、「Your Majesty」や「My Lord」など、とんでもない言葉が出てくる。彼等の口からため息が漏れた。

 

    「My Lord か・・・俺も、言われてみたいな・・・

     ・・・ パフォーマンスでもいいから ・・・」

 

 

 

蛇足:Japanese Wife

 

パフォーマンスの効果があるのは、日本国内だけではない。Y夫人がお気に召さない行動はあったが、オトメは日本の淑女として評判が高く、これは交流において私を大いに助けた。

 

英国以外の国では確認していないが、当時、最高の贅沢は

 

    「米国で給料を貰い、英国の家に住み、中国人のコックを雇い、

     日本人女性を妻とする」

 

と言われていたそうである。最近の日本食ブームで、中国人のコックは不要になったかもしれない。

 

無意味なことをする理由・させる理由(8)

前回からの続き 

  

 S君は私の研究室で大学院に進学し、博士号を取得するまで在籍した。

 

S君の困難

 

彼が学部の卒業論文で、数値計算を含む2つのテーマを3か月で終了させたことは前回話したとおりである。彼はそれまで、プログラミングはおろか、キーボードに触れたことすらなかった。私は彼の修士論文では、卒業研究の2番目のテーマを延長した。数学的な手法を中心に学ばせたが、博士論文では彼の適性を生かすため、大規模な数値計算を取り入れた。

 

そこで研究は大きな困難に突き当り、彼は苦渋の数年を送った。

数値計算には素人同然の私は、最初のうち困難の正体に気が付かず、S君がプログラムミスを犯していると考えていた。滑らかなグラフになるはずが、まったく飛び散った値を示し、異様な計算結果である。そのような場合には、苦しくても自分で間違いを探させ、修正させなければいけない。彼は悪戦苦闘し、後半の1年を無駄にした。すでに最終学年の半ばに差し掛かっていた。通常ならば、すでに投稿された論文が幾つかあり、博士論文の執筆にかかっている頃である。

 

精神的にかなり参っていたはずであるが、独立心の強い彼は、私に殆ど頼らない。私との接触は1回に15分程度でさっさと引き上げる。接触を避けているようにすら見えた。

 

1か月ほどS君と連絡が取れなくなった。学生の一人が、入院したので私に知らせて欲しい、とのメールを受け取ったと伝えて来た。そして研究室に現れた時は、顎に縫い合わせた大きな傷があった。夜中に車を運転していて、気が付いたら朝になっており、血だらけで野次馬に囲まれ、タンカで救急車に搬入されていたそうである。車は水辺で道路から飛び出し、半分沈んでいた。

 

私はこれ以上は放置できないと判断し、原因を究明するための補助計算を幾つか指示した。黒板を前に、私は行うべき計算を、かいつまんで説明した。これだけの説明では、普通はプログラムを書き始めることは難しい。しかし、彼はメモもとらずに聞き流しているように見える。そして「わかりました」と言って、15分で立ち去った。

 

こんな調子だからトラブるのだ・・・解らなくなって、またやってくるだろうから、その時に説教しよう・・・と思っていたが、彼は2時間後に結果を持ってきた。私が指示した計算はきちんと出来ている。私は次の指示を与えた。

 

これを何回か繰り返したが、指示は概略を説明するだけで十分であった。この1年間、彼なりに工夫し、色々なことを試みて力を付けていたようである。プログラム言語すら変えていた。

 

 

そして原因は突き止められた。プログラムのミスではなく、ギブス振動という、良く知られた現象が関係していた。これは当然の現象であるが、別の問題と絡んで予想外の形で表れていたため、大変複雑な数値的困難を引き起こしていた。これは学生が自分で発見するのは無理であろう。

 

私はこの時点で、S君の博士論文の提出が、少なくとも1年は遅れることを覚悟した。単純な三角関数の振動なら抑える方法は昔から色々あるが、今は特殊関数を用いており、かなり面倒な数学が必要である。腰を据えてかからなければならない。

 

勉強させる文献を用意するには、少し時間がかかる。私はとりあえず、特殊関数のある性質を利用した、簡単な対処方法をその場で思いつき、指示した。専門家なら笑い出すような子供だましである。そんな方法が通用するはずはないとは思っていたが、これを試みた結果は、今後の戦略を立てる上で役に立つ情報を多少は含んでいると考えた。また、今までのプログラムを修正するだけですぐ実行できるので、ダメ元で試してみても良い、と思ったのである。

 

すぐ実行できると言っても、2,3日はかかる・・・と思っていたら、彼は15分後に計算結果のグラフを持ってきた。この速さには驚いた。そしてさらに、その結果に驚いた。

 

 

決断 

 

ギブス振動は綺麗に取れ、滑らかなグラフである。そこで、厳密に解けるモデルに適用し、厳密解との比較をさせた。結果は驚異的な精度を示した。ここまでの精度であれば、当初の予定になかった物理量まで、様々な計算が可能である。私は多くの追加を指示した。

 

数週間のうちに、主要な計算は完了した。それまでS君が蓄えていたプログラムはすべて、少し手を加えるだけで使えたが、新たなターゲットも加わっての作業である。彼の計算力は、すでにプロフェッショナルであった。困難な時期を無駄には過ごしていなかった。

 

計算結果のグラフの山を目の前にして、論文の構想を話し合いながら、

 

    「今まで、良く投げ出さずに頑張りましたね・・・

     でも、もう少し私にまめに報告をしていれば、少なくとも

     一年前に、ここまで来ていたのではないですか?」

 

と言うと、「はい」と率直に頷いた。博士論文に相応しい研究成果が得られ、危機は去ったが、やはり残念ながら、1年遅れることになるであろう。博士論文を提出する資格として、英文の国際的な専門誌に投稿し、レフェリーの裁可を経て掲載された論文が必要である。すでに別のテーマで論文は出ていたが、規定の数に達するには、もう一編必要であった。日本物理学会のジャーナルで良いが、新しい方法には必ず疑いの目が向けられ、レフェリーの査読に時間がかかりそうである。ましてや子供だましである。不十分な状態で投稿すると、ますます裁可が難しい。

 

そのあたりの事情を話し、

 

    「今年の提出は難しいね。やってみても良いけれど・・・」

 

と言うと、

 

    「やってみます」

 

と即座に答えた。間に合わなくても、間に合わせるつもりでかかる方が良いであろう。私は前向きな姿勢を尊重した。

 

 

数値計算を積み重ねるにつれて、「ダメ元法」の驚異的な精度を支える数学的な背景が明らかになってきた。そのようなことは稀にある。インチキ臭いやり方が予想外に当たる。後からその理由が判ると、深さと一般性を備えた堂々たる正統派に変身し、適用範囲は大きく広がる。だから、何でもやってみなければいけない。

 

三角関数を使った場合には、余り御利益が無いことがわかった。昔から知られている素朴な方法のひとつに帰着する。しかし特殊関数を使うと、最適化が自動的かつ精密に実行できる。さらに計算が、2桁以上に高速である。

 

この定式化を完成させることは大きな意味がある。紙と鉛筆の計算が強い学生でないと難しいと思われたが、S君はすでに、その一部を試みていた。これは出来るところまで、一人でやらせよう。が、こちらはまだ、彼はプロフェッショナルではない。時間を要する仕事なので、とりあえず手持ちの材料で論文を書くように指示した。残りは博士論文が終わってからでも良い。ただし、投稿する論文は正統派のスタイルを前面に出し、「その場しのぎ」の印象を与えないこと、そして適用可能な範囲のすべてに言及し、一般論として別の論文を準備中である、と先鞭をつけておくように注意した。

 

 

 

日程との闘い

 

レフェリーの一人が難色を示している、と物理学会編集委員長から直々に電話があった。「博士論文に関係した論文であるので、速やかな査読をお願いしたい」と私は投稿の際にコメントを付けていたが、編集委員長の対応は、通常の手続きを省く異例のものであった。彼は「計算例が少なすぎる」とのレフェリーの見解を口頭で伝え、計算例の追加が可能なら、ファイル添付で改定版を自分に送ってくれればレフェリーに転送する、それで恐らく論文は受理されるであろう、と手を差し伸べてくれた。期限まで一週間を切っていたが、博士論文を提出する資格としては、掲載決定の通知があれば良い。論文受理のメールは前日に届き、間に合った。

 

博士論文は大学に提出される。これは申請時には間に合わせで良い。審査会が開かれる直前に差し替えることができる。しかし、実質的な本番は予備審査であり、これは長時間におよび、質疑応答も厳しい。予備審査までには審査員に渡す差し替え版が出来上がっている必要がある。何とかこれを間に合わせ、プレゼンの準備をした。通常は10回もリハーサルをするところであるが、1回半しかできなかった。審査員を選ぶのは指導教官の権限であるが、私はこのような場合には誰もが敬遠する、最も手厳しい若手の助教授をメンバーに加えた。S君は理論グループの最初の博士号申請者であり、この審査のレベルは、その後の基準の目安となる。私は、いい加減な審査で博士号を乱発するジャンクの大学院の方向には、向かわせたくなかった。

 

判定会議では、助教授氏が「素晴らしい」と繰り返し、誰も合格に異議を唱えなかった。

 

 

 

就職

 

博士号を手にしたものの、職の当てはない・・・

 

と思っていたが、突然、高名な先生から、S君はセミナーに招待された。

私と交流の全く無い先生ではなかったが、反応が余りにも早すぎる。私はこの先生が、投稿した論文のレフェリーの一人であったと直感した。今度は入念に下準備をさせ、リハーサルを行った。出発する日、万が一、職のオファーがあれば、どのような分野であっても決して断ってはいけない、と念を押した。言うまでもないことであろうが・・・

 

近隣の研究室からも多くの参加者があり、セミナーは学会のような雰囲気だったそうである。先生は終始厳しい態度で質問を浴びせ、プレゼンはボロボロになった。そしてセミナーが終了すると、「私の部屋に来なさい」と言われた。隣に座っていた中堅の年齢の先生が一緒に立ち上がり、同伴した。

 

研究室に入り、ソファーを示されて腰を掛けるや否や、

 

   「君は働く気はあるかね?」

 

と尋ねられた。「あります」と答えると、先生は

 

   「では、どちらかを選びなさい」

 

と言って、研究機関の名前を2つ挙げた。どちらも日本を代表する一流の研究所である。一方は名門大学に付設され、もう一方は独立の研究機関であった。S君は「どちらでも結構です」と答えると、先生は大学に付設している方を勧め、

 

   「こちらの先生が来月、教授として赴任されるので、協力して

    仕事をしなさい」

 

と言い渡した。

 

先生は研究内容より、蓄えられた彼の力量を見抜き、評価したのであろう。知らせを聞いて、私は大いに慌てた。先生に「ドクター終了まで田舎で過ごした学生であり、環境的に不十分であったが、伸びしろは十分にあるので、長い目で見てやって欲しい」と丁重なメールを送った。

 

 

S君はそこで数年間を研究員として過ごした。関連性はあるが異なる分野であったので、私は心配したが、彼には大きな強味があった。十分に理解していなくても、とりあえずターゲットが分れば、仕事を始められるのである。これは、十分に理解しないと足が前に出ない私とは全く異なる。得てしてこのタイプは、理解せずに数値計算だけを進めるため、とんでもないことをやって沈没するが、彼は不思議と、最後には理解が追いつき、帳尻が合う。そして彼が仕上げたダメ元法の拡張版は、異なる分野でも威力を発揮し、適切な指導者を上司として、共同研究は多くのヒットを生み出した。これらの一連の応用は、この方法をメジャーな手法の一つに育て上げた。この研究所は、世界最速を目指した科学計算用スーパーコンピュータのプロジェクトに関わっていたが、S君は立ち上げメンバーの一人となり、これを基幹プログラムの一つに加えた。

 

 

S君は、女神が微笑んだ人である。日の当たらない冬の寒い日々には、下に向かって根を伸ばしていた。事故に遭ったが天使が救い、命を落とさなかった。そして時間が無い状況でも、退かずに前に出たことが、次のステップに繋がった。この時の決断がS君の人生を決めた。時間に余裕が無かったことが、むしろ幸いしたかもしれない。余裕があれば、見込みの薄い方法は試さなかったであろう。

 

幸運に出会うことができるのは、困難を回避せず、問題解決のために意味のある行動をとる人である。当然ながら、問題を回避しようとすれば、問題を解決するチャンスには出会えない。

 

S君は現在、かつて提示された「もう一方」の研究所に移って研究分野を広げ、順調にキャリアを積んでいる。

 

 

 (完)