浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

~記事へのコメントは歓迎です~

コロナ禍は人間のみに非ず

オトメの嘆き

 

オトメの腕にムヒを塗るタロー。

彼女はとりわけ、彼らに好かれる。

 

  オトメ: ちょっと数分、外に出ただけなのに・・・

       あっという間に、こんなにたくさん・・・

 

  タロー: よっぽど美味しい血なんだな・・・

       凄い!ここなんか、5か所もまとまっている!

 

  オトメ: 家に入れちゃだめよ。

       家に入る時、ちゃんと体をはたいて。

       見つけたら、すぐに潰すのよ!

 

  タロー: まあ、そう言うなよ。彼らも大変なんだよ。

       コロナで人通りが少なくなって・・・

 

  オトメ: え~!人間の血で食べて行っているわけ? 

       動物の血は吸わないの?

 

  タロー: 動物は数が少ないよ・・・ほとんど人間だろ~な

       まあ、解ってやれよ。

       夏が終わるまでは、彼らも生きて行かなきゃならないし・・・

   

  オトメ: ・・・小さく頷く・・・

 

 

タローは殺生を禁じられている。そしてオトメと一緒の時は、決して蚊に食われない

 

 

戦後教育の変遷7ー入学試験

 

第5回の記事で、「日本の学校教育の中に結果平等主義が持ち込まれた」と書いたが、戦後の学校教育には、これと決して相容れないものが、すでに早い時期に生まれていた。受験競争である。

 

平等主義と入学試験 

入学試験の合否に結果の平等は無い。手をつないでのゴールは合格者だけに許される特権である。日本の学校教育は長い間、競合と結果平等主義の対立構図の狭間で漂流してきた。

 

ほぼ終戦直後から、日本は受験社会へとまっしぐらに向かっていたように見える。高度成長に乗りはじめると、戦後のベビーブームと大学への進学率の上昇が重なり、学校教育と入学試験との関わりは、さらに密接になった。これによって、学業=競争 の発想が生まれたことは、戦後の教育の中で最も悲しむべきことである。

 

この潮流に抵抗するかのごとく、多くの人々が入学試験を批判した。しかし不思議なことに、これらの人々は(少なくとも表向きは)入学試験制度そのものに対する批判を、あまり展開しなかった。むしろ入試問題の批判に終始していた感がある。

 

入試問題を批判する際、「難しすぎる」との直接表現は使われなかった。常に「難問・奇問」というセットの表現が用いられてきた。そして、自分が分からなければ、何かと理由をつけて「不適切」と断じる人々が目立った。

 

確かに当時は、高校・大学どちらの入試も、不適切な問題は多いと私も感じていたが、個人的な印象では、むしろ良問に対して「難くせ」がつけられる場合が多かったように感じる(これはまた別の記事で論じたい)。

 

今考えると、このような批判は、学業=競争 に対する反発ではく、実際には「入学試験を廃止し、全員を平等に入学させる」ことを善とする、結果平等思想の一種であったように思える。両者は一見同じように見えるが、底流にあった感情は「試験問題が難しすぎる」という不満であり、つまるところ、普通に勉強していれば誰でも正解できる程度の、易しい入試問題の出題を要求していた。

 

高等教育の難しさは変わらない

定員と希望者数に差があり、入学試験がある限りは、試験問題を易しくしたり、選考基準を変えたりしても、競争そのものが無くなる訳ではない。入学試験とは、敢えて言えば、差をつけて合否を決定することが目的であるので、そのような主張は入学試験制度そのものに向けるのでなければ、自己矛盾から逃れられない。 

 

入学試験制度について個人的な意見を述べるなら、試験によって一定の水準に達したと見做せる者を、全員入学させることが望ましいと思っている。つまり資格試験である。実際に多くの先進国の制度はそれに近い。この場合は「差をつけること」を試験の目的にする必要はないので、学業=競争ではなくなる。自分が一定の水準を達成すれば良いだけであり、他人との競争ではない。

 

ただしこの場合、一部の大学に志願者が殺到しないように、入学者を強制的に配分する必要がある。例えば、すべての国立大学の名称・組織を完全に統一し、居住地域のキャンパスで学ばせるなど、強引な方策が必要となる。

 

居住地域への進学を促す政策は、奨学金などを利用して多くの国々でとられているが、日本の場合は保護者が学費を負担するため、この方向は大変危険である。国立大学の地位を相対的に下げ、私学の隆盛を図りたい文部科学省の一部の役人が、昔から考えていた方向とほぼ一致するが、まさにフランスの二の舞となり、高等教育を庶民の手の届かないものにするであろう。

 

また資格試験に切り替えたからと言って、試験が易しくなるとは限らない。とくに国際水準に合わせようとするならば、中等教育において相応の準備が出来ていなければ、高等教育は立ち行かない(国際水準を考える上で、国内ですら卒業証書が役に立たないと言われる米国の底辺大学は除外している)。

 

どのような方法を採るにしろ、高等教育を受けるために必要な学力は変わらない。学力の定義や測り方にも大きく依存するが(そしてこれは根底から見直されるべきと思うが)、私は個人的には、現在行われている入学試験の平均水準を超える必要があると考えている。資格試験にして競争を排除しても、全体としてみれば、高等教育が狭き門であることは変わらないだろう。

 

なお最近では、大学は一般的な教育の場とし、高等教育は大学院に移行すれば良いと主張する人々を目にする。この意見は米国の大学・大学院を基準に考える人々に多いが、これは日本の大学院の実情に全く合わない。大学院の教育水準をも低下させ、日本の宝であった学位の国際的な信用を失墜させるだろう。

 

中等教育の混乱と受験の低年齢化

受験に熱心な人々の関心は、全体の話ではなく、一部の大学に集中している。そして大学入試をめぐる議論は、出口のない袋小路に入り込んでいる。

 

今では結果平等主義の立場からの批判は殆ど聞かれなくなったが、これまで政府は学業=競争の現実をそのままにして、結果平等の要求を少しずつ受け容れる形で、大学入試と中等教育の現場に様々な制度的・内容的な改変を続けてきた。そして、その自己矛盾のために、公教育の現場に混乱と荒廃を招き続けている。

 

最も大きな混乱は、中等教育の質の低下と、低年齢化した入学試験の過熱に見られるように思う。かつて入学試験は、義務教育終了後の高校受験と大学受験にほぼ限られていたが、今では日本の受験社会の様相は、大変複雑になっているようだ。

 

戦後教育のシリーズはひとまずここで終了し、日本の受験社会について、近いうちに別のシリーズを開始しようと思う。

 

 

奇跡のリレー 5

(前回から続く)

 

帰国

その後、私は日本に職を得て突然帰国することになった。その慌しさのため執筆はさらに遅れ、結局その2編を書き上げたのはオーストラリア人の訪問から約半年後のことである。出発の直前になっていた。

 

母国に常勤の職を得たことをY教授は心から喜んでくれたが、手書きの論文原稿を受け取りながら「君が最初からこれをやってくれていたらね・・・最後にもうひとつ、プロジェクトを申請できたと思うが・・・」と溜息をついた。

 

彼は実に寛大な上司であった。著名な研究者であったが、私を助手に採用した直後に学部長の激職に就き、研究の現場から離れることを余儀なくされていた。彼の研究計画は頓挫しており、別のことをやり始めた私は協力者として期待はずれであったに違いない。しかし、駆け出しの研究者の自主性を尊重し、私の身分をずっと継続してくれた。

 

これは、彼自身の研究者生命を縮めてしまった。私は彼の最後の助手であった。彼は、後任の助手は採らず、学部長を退いた後は、定年を待たずに大學を去ると話した。

 

研究上の協力をほとんどできなかったことは、今でも申し訳なく思っている。最初の段階で追求が浅かったために展望が拡がらず、計算メモから一気に持っていけなかったのは、ひとえに研究者としての未熟さであった。

 

論文を書くように命じられたときには、無茶を言われたように思ったが、一歩を確実に踏んでこそ、次の展望が開ける。教授はポイントを熟知していた。私は滞在の最後になって、引退する彼から大切な基本を学んだ。

 

出発の日

帰国の際には、教授をはじめ教室の全員が心のこもったパーティで私を送り出してくれた。この日までに、秘書さん達は、手分けして論文のタイプを間に合わせてくれた。忙しいさなかに彼女たちが用意してくれた、お祝いの言葉で飾られた手作りのケーキとキスの祝福は忘れられない。私はガードマン氏をはじめ、人々と心からの握手を交わした。

 

 

恵まれた環境で修行時代を過ごせたことは、私の最大の幸運である。思い返せば、私は常に周囲の人々に最大の便宜を図ってもらっていた。短期の研究員を継続するという不安定な身分であったが、隠微な妨害や悪意に出会ったことは一度もなく、私も私の家族も、常に快適に過ごせるように、人々が気を遣ってくれた。

 

多くの励ましと善意がなければ、私は学問を断念していたかもしれない。努力に対して人々が支援の手を差し伸べる社会はありがたい。これは競争社会の考えからは生まれない。人々が少しずつ助け合いの精神を持てば、その繋がりは網の目のように社会に広がり、奇跡のリレーは様々なところで起こるであろう。ときには人の命を救うこともあるかもしれない。

 

私の場合には、ささやかな個人的な出来事であったが、私の人生に多くをもたらしてくれた。

 

月日は流れ、私は当時のY教授を大きく超える年齢となったが、今でもこの分野には格別の愛着と感謝の念を抱き、少ない守備範囲の一つとして研究を続けている。

 

(完)

 

奇跡のリレー 4

前回から続く

綱を渡り切って・・・

しかし、無理やり始めてみると、書きながらの作業は悪くなかった。

 

途中で誰かに読まれても良いように、客観性を意識して書いていたため、考えが良く整理される。日頃の研究の進め方が、いかに緻密さを欠いていたかに気付かされた。

 

論点が明確になるにつれて、次第に「そう悪い論文でもないかな」という気になってきたのは、自分でも驚きである。幸いにも当初の予想は正しく、最後まで破綻は生じなかった。

 

さらに、形式を改めたことで予想以上の展開があった。この方法は、鶏を裂くのに牛刀を用いるような不便さがあったが、種々の取り扱いを共通の視座から一望するには具合が良かった。

 

見通しが良くなると、問題点が明瞭になる。矛盾は必ずしも見かけだけとは言えず、思っていたより本質的な部分で、一連の方法論に弱点があることがはっきりした。ここで牛刀が役に立ち、問題の個所はすっぱりと骨から切除された。

 

これで、既存の理論の単なる書き直しから一歩進み、ようやく人前に出せると感じた。気がつくと、このときには一編の論文では収まりきらない量になっていた。そこで教授を再び訪れ、2編の連作にしたいので、もう少し待って欲しいと伝えた。

 

セミナー報告

これらの結果は、教室のセミナーで報告した。

 

遅まきながらこの分野の初仕事である。人々の評価が心配であったが、尊敬する年長のスタッフ(G博士)が「君らしいスタイルだね。ナイス・ワークだ」と言葉を掛けてくれた。これが最も嬉しかった。

 

ようやく、ほっとした。

 

終わってみると、やってきたことは当たり前のことばかりである。自分は自然な道を辿ったに過ぎない。研究とは、いつもこのようにやるものかな、という気がした。

 

善意のリレーは時を経て、ついに私の新しい研究へとつながった。

 

(続く)

奇跡のリレー 3

前回の記事から続く

 

保管していたメモから

実はこの計算メモは、私にとって特に重要なものではなかった。失くしていたことさえ、気が付かなかった程である。少し気になることがあったので、確かめるために行った計算であり、私はこのようなメモは、自分が納得した時点で捨ててしまうことが殆どであった。

 

これは私の悪い習慣であり、研究者としては極めて不心得である。しかし、このメモの場合、さすがに私は捨てることが出来ず、思い出の品として、机の引き出しに保管していた。

 

1年ほど経過したある日のこと、私のボスであったY教授のもとに滞在していたオーストラリアの研究者が、私の部屋をぶらりと訪れた。彼は「ちょっとわからないことがあってね・・・どこかに矛盾があるような気がするので、君の意見を聞きたいと思って・・・」と言って、私たちは黒板でディスカッションを始めた。

 

よく使われている理論にまつわる、ちょっとしたパズルである。まさに1年前に気になって確かめた、件のメモに関連していた。よほどの潔癖症でないと気に止めない問題と思っていたが、彼の仕事では、計算方法によって異なる結果が得られるという現実のトラブルを引き起こしていた。

 

私は保管していた紙片を取り出し、思い出しながら説明を始めた。矛盾は見かけ上のもので、使い方に気を付ければ問題は生じないことを話し終えると、オーストラリア人は「なるほど、なるほど」と相好を崩して帰った。

 

 

悪戦苦闘

10分後に、オーストラリア人を従えて、Y教授があわただしくやって来た。

 

教授は私にメモを見せることを要求した。彼は明らかに、これについて私が何も話していなかったことに腹を立てていた。

 

実は、私は彼の研究助手をしていながら、共同研究で成果を上げられず、結局は私自身のテーマで研究することを許してもらっていた。メモは共同研究のテーマに関して、私なりに勉強した結果ではあったが、とくに新しい成果と言えるものではなかったので、一度も話したことがなかった。

 

説明を聞き終えると、彼は「こんなものを1年も机の引き出しに放置するとは、何たることだ!」と繰り返し、これを直ちに論文としてまとめるように命じた。

 

私は、「これは論文になるような内容ではない」と主張したが、教授はいつになく厳しい態度であり、私は途方に暮れた。私自身、短期の身分を更新している研究員である。できれば水増ししてでも成果を上げたいところであるが、これだけの材料で、何を書いたらよいのか。僅か3ページの計算で論文をでっち上げ、レフェリーの査読を通す自信はなかった。

 

教授は1週間で書き上げるようにと言い渡して帰り、私はやむなく悪戦苦闘を始めた。どうにか形にしなければならない。忘れかけていた問題の洗い直しから始めた。

 

10日ほど思い悩んだ末ようやく、問題をもう少し一般的に提示すれば、何とか格好がつくかもしれないと考え始めた。調べてみると、同じような見かけ上の矛盾は、他の同類の方法にも形を変えて現れている。簡便さを重視する英国の物理学には馴染まないやり方だが、数学的に堅実に定式化をやり直せば、一括して問題がない形式に書き直せるかもしれない。

 

無意味な形式美と批判されることを恐れつつ、教授に考えを伝え、もう1週間ほど時間をもらった。しかし、小回りが利かない方法である。枠組みを造り直すだけで、たちまち1ヶ月が過ぎた。これ以上待たせるのは限界である。せめて執筆を開始しているポーズを取らねばならない。

 

私は細部を詰められないまま見切り発車した。破綻が生じないことを祈りつつ、とりあえず論文の形で書き進み、途中で細かい確認計算を繰り返した。こんな綱渡りは初めてであった。

 

(続く)

奇跡のリレー 2

前回から続く

 

街の中で紛失した所有者不明の計算用紙が、わずか2時間のうちに自宅まで届けられたのである。私の仕事が、この社会でこれほど大切に扱われているとは、思いもよらぬことであった。この事件は、それまで英国の社会のあり方、とくに教育について批判的であった私に大きなショックを与えた。

 

英国の教育事情

私の目に映っていた当時の英国の教育は、まさにボロボロと言える状態にあった。政府は工業立国を唱えながら、大学教育を受けられるのは国民の数パーセントにとどまり、学部教育は促成栽培の3年間。大学院はといえば、学部卒業から博士号取得まで僅か3年間という、これも促成栽培の短期コースである。

つまり博士号を取得しても、内容・年数ともに日本の修士課程と実質的に同等であり、高度産業を支える人材の人口比は、日本に比べて2桁以上少ない。英国では大学院生に占める外国人の割合が高いので、実際の差はそれ以上である。

 

中等教育はさらに深刻で、高等学校で終える人々の平均的な教育水準は、高く見積もっても日本の中学2年生程度であろうか。30歳に近いある男性失業者が、就職活動のためにOレベル(ordinary level;高校卒業の認定試験)の数学を受験したいということで、親戚の経済的援助を得て私に家庭教師を依頼してきたことがあった。学力は日本の小学3年生程度であり、私はどうにもできなかった。

 

大学受験には日本のセンターテストに近いAレベル(advanced level)に合格することが必要であり、Oレベルはかなり初等的な水準に設定されている。それにもかかわらず殆どの卒業生は、この認定試験を受けずに学校を去るのである(有名な話ではダイアナ妃もOレベルを取得していなかった)。そのような状況であるので、Oレベルの数学に合格すれば、確実に良い仕事が得られると言われていた。

 

教育をはじめとする様々な英国社会の問題は、人々の目にも次第に明らかなところとなり、当時絶好調であった日本の経済力に対する羨望の念が、社会全体に芽生えていた。テレビや新聞は連日のように日本特集を組み、日本の教育を紹介していた。そしてその反動として生ずる盲目的な英国礼賛の風潮、隠された東洋人蔑視の感情に、私は冷ややかな感情を抱いていた。

 

日本ならどうなる?

 

しかし私は、この状態でなぜ英国社会がそれなりに機能しているのか、その理由を垣間見た気がした。

 

日本で事実上の義務教育と言える高等学校を卒業した人であれば、計算用紙の微分記号や積分記号を見て、「見たこともない言葉だな」と言う人はいないであろう。この部分だけを取り上げれば格好の笑い話である。

 

しかし日本であれば、一連の過程のどこかで、紙片が屑篭行きとなったことは間違いない。紙片を見た郵便局員が所有者を室内で探してくれるところまでは考えられるとしても、その後はどうであろうか?局員とともに額を寄せ合って考えた周囲の人々、大学の守衛室まで届けてくれた御婦人、数学教室に直ちに届けた守衛さん、数学教室・物理教室の秘書やスタッフの方々、そしてもちろん、家まで届けてくれたガードマン氏その人。

 

これほどの善意のリレーが次々と起こり得るであろうか。紛失した場所が大学の構内であっても考えにくい。街の中であれば、「嫌なものを見てしまったな」などと思う人も多いかもしれない。国民の全員に微分積分を教えながら、日本の教育は、文化として何を普及したのであろうか。

 

この話には長い後日談がある。

 

(続く) 

奇跡のリレー 1

届けられたメモ

「ハロー、ドクター・ウラシマ !」と帽子をとり、にこやかに挨拶した制服姿の初老紳士が、私の勤める大学で時々顔を合わせる主警ガードマンであったことを思い出すまで、しばらく時間がかかった。

 

金曜日の夕方、いつもより早めに帰宅していた私が、玄関のチャイムに応じてドアを開けた時のことである。すでに夕食の時間帯であったが、夏のことであり、外は明るかった。緑の木々と木漏れ日を背景にした、はにかむような彼の笑顔と大きな姿を、今でも鮮やかに思い出すことができる。

 

彼は私に3枚の紙片を差し出し、丁寧な口調で「もしや貴方の大切なものではないかと思って、届けにきました」と告げた。

 

それは、私自身まだ失くしたことに気付いていなかったメモであった。

 

その日の午後、私は街に出て郵便局で手紙を出し、そのまま週末の買い物を済ませ、大学へは戻らずに直帰していた。ガードマン氏の説明は次のようなものであった。私はこのメモを残して郵便局を出てしまった。やがて局員の女性がこの紙片に気付き、人々に声をかけて所有者を探したが、該当者がいなかった。彼女は急いで外に出て周囲を見回したが、誰の姿もなかった。

 

その後、郵便局内では局員や客の何人かが額を寄せ合い、何が書かれているのかを確かめようとした。彼女は手紙であると想定して、室内にいるすべての外国人に見せたが、誰しも「見たことがない言葉だな」と言うだけで、書かれている内容も見当がつかなかった。

 

そのうち誰かが、所々に等号らしきものがあることから、「これは言葉ではなく、数学の記号ではないか?」と言い出し、それならば大学の人が忘れたに違いない、ということになり、そこに居合わせた御婦人が、帰りがけに車で、大学ゲートの守衛室まで届けてくれた。

 

 

所有者が判明して・・・

ゲートの守衛さんは、これを数学教室に届けた。

 

多くの研究者は帰宅してしまっていたので、全員には照会できなかったが、何人かの秘書さん達が残っていた。彼女たちは日ごろ論文や手紙をタイプしているので、人々の筆跡をよく知っている。が、彼女たちには、該当者の心当たりがなかった。

 

もはやこれまで、と思われたが、念のため最後に、物理学教室に持ち込まれた。

 

そこで秘書さん達が口をそろえて「あー、これはタローの字だわ」と言って、ようやく所有者が判明した。

 

彼女達はすぐ私の部屋に持って来たが、私は不在であったので、ガードマン氏が呼ばれ、部屋の鍵を開けて、机の上に紙片を置いて帰ろうとした。

 

ガードマン氏は、しかしこう続けた。

 

「そこで私達は少し相談したわけです。もしかしたら、貴方がこれを探し回っておられるのではないか、と。金曜日の夕方でしたので、貴方は研究室に戻られない可能性が強い。机の上に置いたのでは、貴方の手に戻るのは月曜日の朝になってしまう。これでは研究に支障が出ることでしょう。住所を伺ったところ、たまたま私の家と同じ方向だったので、帰りがけに寄らせていただきました。やはり帰宅しておられたのですね、机の上に置いて帰らないで良かった・・・」。

 

私がガードマン氏に深々と頭を下げ、感謝の言葉を述べたことは言うまでもない。

 

(続く)