浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

~記事へのコメントは歓迎です~

英国人の読解力と国語教育4

 

 

 

 

 前回から続く

 

・・・コンピュータのマニュアルを読むのは気が重く、私は完成目前の研究を、しばらく中断させていた。いつまでもレポートに取り掛からない学生の心境に近かったと言える・・・

 

 

 

快適なマニュアル

 

 

そうこうしているうちに、夏休みに入り、Y教授の研究室に、米国のA.M.教授が滞在することになった。

 

Y教授の長年の友人であり、共同研究者である。彼も計算センターに通い、数値計算を始めるとのことで、私はこれ幸いと同伴し、2人で椅子を並べて端末に向き合うことにした。

色々と教えてもらうことができるだろう。訳のわからないマニュアルを読むより、人から直接、やり方を教えて貰うに限る(これも某大学の学生の心境に近い)。

 

 

計算センターに足を運ぶのは初めてであった。行ってみると、マニュアルは、初級・中級・上級に分かれて、受付に置かれていた。M教授が初級を手にしたので、私はがっかりした。私と大して変わらないレベルなのか・・・

 

 

 

2人とも端末の前に座り、しばらく無言で読み入った。

 

読んでみると、意外と読み易い。平易な文章で、何よりも「何の話か」の説明が最初にあり、概観がしっかり掴めるのが助かる。

 

次に、コマンドの使い方が、例を用いて示されている。聞いても役に立たない不要な解説は無い。使用例の選び方と提示の順序が大変適切であり、自ずとコンセプトが理解される。

 

私が使うような初等的な例は、大体最初の方に書いてあり、そのまま借用すれば、すぐに仕事にかかれる。初級から上級までの区分けも見事であり、解説は必要度に応じて与えられている。想定されるレベルで不要なことは、一切書かれていない。

 

 

 

    「タロー、この説明書を、どう思う?」

 

とM教授が聞いた。

 

    「日本のものより、ずっと読み易くて、びっくりした」

 

と答えると、

 

    「全く同感だ。アメリカのはひどい。何が書いてあるのか、

     さっぱり解らない。日本のマニュアルもひどいのか  ・・・

     アメリカの翻訳かもしれないな」

 

    「マニュアルに限らないが、イギリス人の書くものは、非常に

     読み易いな。Y教授とも良く話すが、彼等の科学教育はなって

     いないが、国語教育だけは世界最高水準だよ・・・」

 

 

理系の文章力がダメなのは、日本特有なのかと思っていた、と話すと

 

    「いや、実は・・・アメリカの場合は、理系はましな方だ。役人

     の文章が最もひどい。政府が色々やっているけれど、効果が

     さっぱり上がらない。政府の公文書なんか・・・コンピュータ

     のマニュアル以下だよ」

 

 

 

この話は、その時はあまり信じられなかったが、後に日本の物理学会の会員誌で知った。米国に長く在住している日本人の教授が、「日本人の論文の英語を良くするために」と題して寄稿していた。米国では、公文書の質があまりにも悪いので、政府は例文集を配布し、そこに載せている構文以外を使用しないように、と官僚に指導しているという話が書いてあった。高度な構造の構文が見事に分類・整理されているとのことで、彼はこの例文集の利用を論文の執筆に勧めていた。

 

ちなみに、この例文集は、私は見たことがない。記憶が正しければ、例文は5000程度あるとのことであった。2000の間違いかもしれないが・・・いずれにしろ、「冗談じゃない」と思ったのを覚えている。

 

まあ、「上手にやりなさい」ということであろう・・・

 

 

 

英国の国語教育

 

数値計算に不安は無くなったが、英国の国語教育が素晴らしい、という話は初耳だった。

 

Y教授との会話以来、私は英国の国語教育はむしろ貧しいと考えていた。教育の現場を見た訳ではないので、想像ではあるが、Y教授の話では、文学など最初から無視している国民である。ただ、英国政府が国語教育に最も力を入れている、というのは事実らしい。

 

 

しばらく暮らしていて気が付いたのだが、英国人の文章には、共通の特徴がある。

 

まず何の話か、必ず概観を最初に述べる。この点は英国人に限らないが、英国人はより厳格な感がある。最後になってようやく、何の話か判る・・・というような書き方は、決してしない。最初の数行で何の話か判らなければ、人々は読むことをやめてしまう(プレゼンテーションであれば、最初の数分で座長が止めて注意する)。

 

そして、段落ごとの主張をはっきり示し、全体として、前提・説明・結論の流れを明確にする。頭と尻尾だけ飛ばし読みすれば、話が解るようにするのである。中間の説明は、必要に応じて読めば良い。

 

文脈は特に重要である。「しかしながら」「ところが」「なぜなら」「したがって」などの、論理的な関係を示す接続詞を殆ど書かない。文脈のみでそれがわかるようにする。それだけに、段落分けとカンマには厳しい。論文などで、カンマの位置ひとつで文脈を取り違えられると、編集部は文章ではなく、接続詞が不適切と判断し、「しかしながら」を勝手に「したがって」に変えて印刷に回したりするので、校正には非常に気を使う。

 

 

恐らく彼等の国語教育は、情報を伝える手段としての言葉の教育に徹しているのであろう。文章から情報を正確に読み取り、また書く場合には、伝えるべき内容を取捨選択し、しっかり構成する・・・このような教育を、徹底して行っていると予想する。この文章スタイルは、学術的な文献から行政の広報、商品の宣伝に至るまで、共通している。

 

もはや工業国家としては見る影もなかったが、英語が国際語となっている強みを生かし、この国語教育が、彼等のビジネスを支えていたのかもしれない。マニュアルの出来栄えが示しているように、 その点では彼らの国語教育は、確かに成功だった。そして、これはビジネスだけでなく、市民生活を支えてきた。

 

その結果かもしれないが、彼等は、言葉で人の知性を見定める傾向がある。社会人として信用を得るには、話の組み立て方や、手紙の文章力を鍛えなければならない。

 

 

私は秘書さん達に、手紙の文章表現をよく教えてもらい、助けてもらっていた。中等教育を終えたばかりの女の子が、しっかりした知的な文章を書き、面倒な内容でも簡潔に伝える訓練が良く出来ている。また上手に「婉曲な表現」も使い分ける。まことに頼りになった。

 

なお彼女たちは、大学の掲示物や「お知らせ」の配布物の文章も手がけていた。このような文章は単なる情報伝達文ではなく、英国人のスピーチと同様、なかなかウィットに富んでいる。

 

秘書さんの一人が、婚約者の転職にともない、自分も転職して同伴することになった。送別会が催されたが、案内文は

 

  「我らが美しき蝶  ## 嬢は、ネオンを求め、ロンドンに飛び去ります」

 

というような表現であったと記憶する。

 

 

 

余談: 文学の国からの便り

 

このシリーズの初回、および第2回に、「言葉を情報の伝達手段とのみ認識すると、どうなるか」という話を書いた。そこに書いた程度であれば、異文化交流の笑い話と言えるが、次の例は、いささか深刻である。

 

 

Y教授はある時、日本に帰国した研究員の母親から、手紙を受け取った。手紙は、息子が世話になった御礼、また自分が息子を訪問した際に受けた「おもてなし」の御礼をしたためていた。

 

英語は良く書かれていたが、教授夫妻はそれを読み、この御婦人が心を病んでしまったと思った。

 

いきなり天候の事が書かれているなど、余りにも混沌としていた・・・と話していた。

 

実はこの話は、私の前任の日本人研究員から聞いて、すでに知っていた。彼が手紙を読ませてもらったところ、心のこもった日本流の手紙文で、原文がそのまま判るような直訳の文章だったそうである。誰かが手伝って英文にしたものと思われた。「時候の挨拶は日本人の習慣であると説明し、Y教授には納得してもらった」と私は聞いていた。

 

・・・が、Y教授と夫人は首を振り、

 

  「時候の挨拶の話は彼から聞いたし、日本人の習慣は私たちも

          心得ている。彼は、文章を読んでも彼女の心の病いに気が付か

          なかったようなので、私達は敢えてそれ以上話さなかった・・・」

 

と語った。「最初の数行で何の話か判らなければ、英国人は読むことをやめる」と書いたが、Y教授夫妻は、最後まで慎重に読んだそうである。

 

 

 

日本の男女は平安の昔から、和歌の遣り取りで思いを伝えていた。

 

秘められた意味こそが真実である世界の住人と、言葉をそのまま信ずることを善とする人々とのコミュニケーションは、これから百年先でも、まだ難しいかもしれない。

 

 

「言葉の重要性」に関連して、日英の幾つかの例を、個人的な視点からお話しした。

次回は、英国人が日本人の言語習慣をどのように見ているかについて、お話ししようと思う。「日の昇る国への羨望と失望」と題して執筆中である。

  

  

(続く)

 

 

英国人の読解力と国語教育3

前回までは言葉から情報を受け取る場合の話をしてきたが、情報を発信する場合の話を少し書こう。  

 

 

日本の憂鬱なマニュアル

 

私は、研究でコンピュータを使わなければならないことがある。しかし正直なところ、若い頃は、出来ればこれを避けたいと思っていた。

 

科学計算のプログラミングは特に嫌いではない。経験を積まなかったため、達者にはならなかったが、自分は向いていないとは思わなかった。 

避けていた理由は色々あるが、最大の理由はマニュアルである。

 

 

当時はパソコンやワークステーションが登場する以前で、大型汎用機の時代であった。 

膨大な人数が、一台を共有し、同時作業で多くのタスクが処理される。 

 

現在のように、アイコンをクリックしてプログラムを起動させたり、ドラッグ&ドロップでファイルの整理ができるというような、便利な機能は備わっていなかった。 

すべては、キャラクターベースで、コマンドを打ち込んで処理される。

これを、計算機センターに出向き、端末から行う。

 

 

プログラムファイルの編集は、行単位で行われる。

一つの命令文を修正するだけでも、「修正個所の範囲の指定」、「置き換えるべき内容の入力」、「結果の表示と確認」に分けて、それぞれにコマンドの入力が必要である。

 

プログラムをコンパイルするにも、走らせるにも、データファイルをリンクさせるにも、多種多様なコマンド(=おまじない)を覚え、これをキーボードから打ち込む。

 

 

 

勤務場所を変える度にシステムは変わる。その都度、膨大なマニュアルと格闘し、間違いを繰り返し、多くの時間を無駄にする。

 

そのマニュアルは、到底読める代物ではなかった。

敢えて言うが、当時の技術系の人々の作文能力は、ひどいものだったと思う(現在はかなり改善されているようだが)。

 

作文能力だけではない。講義やプレゼンテーションなども含め、理系の人々は情報発信能力が低く、テレビなどでは使い物にならない人々が大半であった。変人扱いされても、無理はない。

 

マニュアルについて言えば、例によって「何の話か」が、全く書かれていない。

 

「どうやるか」に徹して書いているなら、まだ良いのであるが・・・ 

必要もない、意味不明の説明が、「どうやるか」と混然一体となっている。

伝える情報に明確な意思が無く、徒然に筆を走らせている。

 

文章は、「てにをは」すら怪しい。

 

専門家でしか解らない、耳慣れないカタカナ用語をふんだんに使う。どのような人々が読むのかを、一向に気にしていない。

 

しかも、用語の大半は説明がなされず、推測するしかない。説明される場合も、ずっと後になってからである。

 

一般に、最初に説明べきことを、ずっと後になってから記述するような書き方を、平然とする。

 

 

ずいぶん愚痴を並べたが、ここに書いたことは、私の抱いていた不満のごく一部である。

 

 

 

 

逃げられない事態

 

 

本来なら喜びの瞬間のはずであるが・・・気分は落ち込んだ。

  

      ・・・  終った  ・・・

 

 紙と鉛筆の戦いに、ようやく勝利した。 遂に目的の方程式を導いた。

 

しかし、これは私にとって、次の戦いの始まりを意味していた。

 

英国に渡って以来、キーボードに一度も触れず、紙と鉛筆だけで何とか論文を書き、職を繋いで来た。

 

・・・が、今度ばかりは、そうは行かない。結論には120%の自信を持っていたが、この方程式を数値計算で解き、グラフを示さなければ、論文は受理されない。 

この問題を手掛けた以上、コンピュータとの格闘が避けられないことは、最初から分かっていた。モラトリアムをやっていられる余地は、もう机の上には残っていない。

 

 

比較的簡単な計算である。昔書いたプログラムの一つをベースにして、少し書き加えれば良い。計算そのものは、1週間で終わるだろう。幸い、自分の作成したプログラムは、重要なものはすべて持ってきた。

 

しかし、紙媒体であったので、自分の手で打ち込まなければならない。これは、ウンザリする作業である。さらに、それより大きな問題は、その前に、おぞましいものを読まなければならないことであった。

 

マニュアルを・・・しかも英語で・・・

 

そのため、私は折角の完成目前の研究を、しばらく中断させていた。いつまでもレポートに取り掛からない学生の心境に近かったと言える・・・

 

 

(続く)

 

 

2018年8月8日

  

 

・ ひと口笑い話: ミニ言語学25

 

     英語      日本語

           wife                  賄婦 

 

        注: 「まかないふ」ではなく、音読みです。

        なお、女性蔑視の意図は全くありませんので、ご了解ください・・・

 

英国人の読解力と国語教育2

 

 

前回より続く 

 

語学研修の体験は、笑い話として済ますわけには行かなかった。私と家族は、この社会の一員として、生きて行かなければならない。このとき、私は英国に永住する覚悟であった。こんな行き違いが頻繁に起こっては、大変に危険である。 真相を確かめるべく、私はY教授に教材を見せて意見を求めた。

 

 

Y教授の解説

 

Y教授の意見は次のようなものであった。

 

  「個人的には、タローの答えは正しいと思うが・・・英国では、このような

   場合には、書かれている通り答えなければいけないと思うよ」

 

私が怪訝な顔をしていると、

 

  「一般に私たち英国人は、他人の心の中に立ち入ることを戒める。子供たち

   にも、人が自ら口にしたことは、そのまま信じなければいけないと教えて

   いて、その点は家庭でも学校でも、かなり厳しく躾ける」

 

と続けた。 学校では文学作品などをどのように教えるのか、と尋ねると、きっぱりと「教育の現場では文学は取り上げない」と答え、「文学の解釈はプライベートなものだ・・・」と呟いた。

 

心なしか、彼の最後の呟きには、微かに不快感が混入している気がした。

 

                ・

                ・

                ・

 

 様々な機会に彼の人格に触れてきた私にとって、Y教授の言葉は説得力があった。

「他人の心の中に立ち入ることを戒める」という言葉に、日頃の行いをたしなめられた気分になった。確かに日本語にも、「邪推」という言葉や「下衆の勘ぐり」という表現があり、これを戒める精神はある。

 

彼は敢えて「個人的には・・・」と自分の考えを明かして解説してくれた。真の理由は、解った人が自分の胸にしまっておけばよい、ということか。

これは、人間同士の関わり方について、本質的なテーマを提示しているかもしれない。

 

しかし・・・である。デリケートな会話の練習において、背景の理解を共有せずには、授業は成り立たない。「他人の心の中に・・・」といっても、作り話であり、架空の人物である。教材製作者の意図は、私には明らかに思えた。 

 

仮に私が、

 

  「奥さんの料理が上手で食事が美味しい、と彼は言っていますが・・・

   ・・・どうも文脈は、別の理由を示唆しているようですね」

 

と言えば、教師はニヤリと笑って、「イエス!」と言ったのであろうか?

 

そうとは思えなかった。もともと、表と裏を使い分ける国民ではない。彼は本気で「奥さんの料理」を真の理由と考えていた節がある。子供の頃から、文字通りの意味しか考えてはいけない、と教えられ、それをすべてにあてはめる習慣が身に付いてしまったのではないか・・・

 

これ以上はY教授に聞くことはできなかった。そして、その後、似たような場面に、何度か遭遇することになった。  

そのひとつを紹介しよう。

 

 

 

編み物をする少女の話

 

「編み物をする少女」という、フランスの安作りのドラマがテレビで放映されたことがあった。会話はフランス語であるが、字幕スーパーが出るので、これは会話表現の勉強になる。しかも、フランス物は言葉の数が少ないので、スーパーの字をゆっくり追える。

 

内容は陳腐であった。名門の私立大学に通うエリートの学生が、貧乏な階級の娘に恋をして、結婚を考えるが、学友の仲間達に説得され、彼女に別れを告げる。彼女もすんなり、別れを受け入れる。

 

その後、彼女が体調を崩して故郷に帰り、入院した、という知らせを聞き、心配になった男は、田舎の病院に彼女を見舞う。彼女はベッドで編み物をしていたが、彼が病室に入るとそれを毛布の下に隠す。「何も心配ない」と笑顔で話し、最近行った旅行の話など、何でもない会話をして、男を安心させて別れる。

 

そして、彼女は編み物を続けた。編み物は、生まれてくる子供のためであったが、学生はそれに気付かず、病院を後にする。

 

 

英国は、テレビ局の数が少ない。その上、何も放映されていない時間帯が長い。ドラマの制作も数が少なく、古いものを何度も再放送したり、たまに海外から買ってくる。そのため、再放送でないドラマが放映されると、翌日は人々との会話で、必ず話題にのぼる。

 

その頃、私たちはキャンパス内のゲストハウスを出て、郊外の住宅地に住んでいた。「編み物をする少女」も近所で話題になったが、彼女が何のために編み物をしていたか、口にした人は一人もいなかった。

 

「かわいそうに、彼女は気が狂ってしまったのね・・・行ったこともない場所の話をしたりして・・・」などと、何人かが話していた。

 

 

他人の心の中に立ち入ることを戒め、本人が口にした言葉をそのまま信じる、というのは、社会道徳として素晴らしいと思う。これを貫く社会は尊敬に値するが、一方では程度問題という気もする。程度が過ぎれば、文学など成立しなくなる。実際に「教育の現場で文学は取り上げない」というのだから、英国人は徹底している。

 

多くの人々は解っており、「胸の内にしまっている」だけなのか?

誰も胸の内を語らなければ、「そうだったのか」と悟る機会もない。

 

 

 

ちなみに、「本人が口にした言葉はそのまま信じなければならない」というのは、ヨーロッパの多くの国々で、通用しないようである。「嘘も方便」が日常化して、人が述べている理由を、互いに全く信用していない国もあった。

 

(続く)

英国人の読解力と国語教育1

 

 

 

言葉の重要性4」から続く

 

上の記事において、言葉は感情を伝える手段ではなく、情報を伝える手段である、と書いた。

 

もちろん、これは学問の世界の話で、言葉には両方の役割がある。そして、感情と情報の区別は必ずしも明確ではない。さらに言葉には、文字通りの情報以外にも、背後の状況や話し手の表情、仕草ともリンクして、様々な意味が込められる。

 

学問の世界において、言葉にこのような「様々な意味」があっては大変困るが、日常の生活においてこれらをすべて無視し、言葉を単に「文字通りの情報を伝える手段」として認識すると、どのようなことが起こるであろうか?

 

 

語学研修

 

英国に研究員として赴任してから半年後、ボスのY教授は学部長の要職に就き、研究の現場から離れることを余儀なくされた。研究テーマはあったが、自分の判断で好きなようにやって良い、と言われ、私は日がな一日、オフィスに一人置かれた。

 

このときは大学のゲストハウスに移ったばかりであったが、近所の人々は、私たちに対してなぜか険しい表情で、挨拶もろくに返さず、交流は全くなかった。

あとで判ったことであるが、ゲストハウスの住人はポーランドや台湾、香港など、政治的に微妙な立場の国々の人が多く、私達を大陸本土の中国人と思い、誰も近づかなかったのである(日本人と知った途端、大歓迎された)。

 

ティータイムとランチタイム以外は誰とも話さず、家に帰り、妻と日本語で会話する。このままでは会話能力が全く向上しない。私は、大学の語学研修を受けることを思い立ち、Y教授に相談した。留学生や私のような滞在者のために、大学が費用を負担して、研修を行う制度があった。

 

学部長室に移っていたY教授は渋い顔をした。事務方は支出を最小限に抑えるのが仕事である。日本のように、あらかじめ予算が確保されていて、人数にゆとりがあれば問題ない・・・という制度にはなっていない。

 

  「う~ん・・・来てすぐなら良かったんだが・・・もう、みんなタローのこと

   を知ってるからなあ ・・・まあ、一応かけ合ってみるけれど・・・」

 

数日待たされた事務局からの返事は、「ウラシマ博士は仕事を遂行する上で研修が必要と判断されない」という、つれないものであった。

 

私はやむを得ず、自費で研修に参加することにした。かなりの費用であった。 

 

 

 

  

英国人の微妙な会話

 

まず最初に、所属するクラスを決めるテストを受ける。

ケンブリッジ・サーティフィケートと呼ばれる、外国人が母国で語学教師をするためのグレード試験がある。クラス分けのテストは、その模擬試験問題を使っていた。コースの教材も、同じ団体から供給されている。聞き取り問題は、日本人が苦手なLとRの区別などは、全体のごく一部しかなかった。そもそも試験は会話能力より読解力、構文、高度な語彙の理解などを重視しており、日本人には容易な問題ばかりであった。その結果・・・

 

いきなり最上級クラスに入れられてしまった。

 

私は途中参加であり、すでに授業は進んでいた。私以外の受講者はすべて、母国の大学で教員をしている途上国の留学生であった。

 

最初にやったのは「割り込み」の訓練である。外国人は、警察や行政機関、銀行など、さまざまな場所で、手続きが必要である。その際に、たとえば自分が該当しないことが途中で判明しても、職員が説明を一方的に続けたりする。そのような時は、相手の話を「ちょっと待ってください」と遮り、自分の状況を説明し、不要な会話を避けなければならない。そのタイミングと、適切な言葉の選択である。

 

これは大変、ためになった。

 

その次の訓練は「遠回しな会話」である。聞きにくいことをそれとなく、微妙な言い回しで、じわじわと核心に迫るように尋ねて行く。これは表現の訓練というより、話の組み立て方の訓練と思えた。

 

教材は良くできていたが、受講者が未成年の場合には使えないものだった。

精神カウンセラーが患者と会話を始める、という設定で例を示している。

患者は問題を抱えているのだが、言いにくい内容であり、相談に来ていながら、それを隠す。

カウンセラーはどのように遠回しな会話を組み立てるか・・・

 

まず、「今朝は、朝食に何を召し上がりましたか?」と、それとなく生活の様子を探る。患者は、食した物を一つずつ答える。

トーストと紅茶の他に、ベーコングリルや半熟玉子など、典型的なイングリッシュ・ブレックファーストであるが、分量がやや驚くほどである。量が多すぎることは本人も自覚している。朝食であり、料理の腕が左右することはないが、「私の女房は料理が上手なんですよ・・・」と言い訳のように付け加える。カウンセラーは昼食、夕食の内容も尋ねるが、いずれも山のような分量であり、患者はしきりに「女房は料理が上手で・・・」と繰り返す。これらもポテトやソーセージなど、非常に単純な食事で、ほとんど「料理」と言えるような内容ではない。

 

カウンセラーはさらに、生活の様々なことを訪ね、次第に真相が明らかになって行く。

 

患者の男性は、性的不能に陥っており、そのため、妻が不機嫌にならないように気を使い、ごく普通の食事を「とても美味しい」と褒めつつ、一生懸命に食べていたのである。

最後に、やや直接的な表現が、カウンセラーの一言にチラリと現れ、それに対して患者は「・・・」と口籠って会話は終わる。

 

 

 文字通りに解釈せよ!

 

この練習は初回であったので、まずは会話音声を聞き取り、内容の理解をチェックする設問が教材には設けられていた。配布されたページには、会話の内容がそのまま書かれていた。

 

教師は、「なぜ、患者は大量の食事を採っていたか」という要の設問を、私に振った。指名されたのでは仕方がない。言い難かったが、教室に女性はいなかったので、私は

 

   「彼は身体的な問題を抱えていたので、妻との関係を良好に保つために、

    彼女の料理に満足していることを示そうとして、大量に食べていた」

 

と答えたところ・・・教師は驚いた顔をして私の顔を見た。

 

   「ノー!! あなたは聞き取れなかったのですか?」

 

たとえ聞き取れなくても、すべては文章に書かれて配布されている。なぜ彼は大量に食していたのか・・・私には他の理由は考え及ばなかった。

 

   「・・・ 私の答えで違うのでしたら、正解は何でしょうか?」

 

   「彼が自分で言っているでしょう?彼の奥さんは、料理が上手なのですよ!!」

 

 

   「・・・  は ?  ・・・」

 

 

私の思考は飛んでしまった。 

 

   「・・・コレハ、微妙ナ会話ガ理解デキテイルカドウカ、タシカメテ 

    イルノジャナカッタノカシラ?・・・」

 

書いてあることを答えさせるだけなら、設問の意味はない。教材作成者の意図が、そんなところにあろうはずがない。

口にするのが不適切な内容なら、設問にしなければ良い。そもそも、彼は患者が性的不能であることを、すでに解説していた。私は食い下がったが、彼はやや乱暴に会話を打ち切り、そそくさと次の人に、別の質問を向けた。

 

結局、「遠回しの会話」の練習は行われることなく、授業は次回からディベートの練習に移った。

 

 (続く)

 

言葉の重要性4ー卒業を控えた学生(後編)

 

 

 

前編の続きであるが、その学生に、どのようにして単位を出したのかは、覚えていない。当時は今とは比較にならない超売り手市場で、就職は内定していた。

 

答案も採点も保管され、外部審査が監視する今の時代なら、単位の認定は不可能であった。私なりの基準は守る努力をしていたので、最終的にはそれなりの勉強をさせたはずであるが・・・

 

 

 

精一杯やりました!

 

いずれにしろ私は、この学生には勉強させる以前に、別の指導が必要であると考えていた。本来は卒研の指導教官の仕事であるが・・・

 

理系の人間にとって、言葉は第一義的に、情報を伝える手段である。感情を伝える手段ではない。まず、それを解らせなければならない。好奇心を持って読まなければ情報は読み取れない、とシリーズの最初の記事に書いたが、拒否の心すら持ってしまっては、耳に入るはずもない。そこが第一歩である。

 

 

レポートに関する最後の指示を言い終え、彼が正確に書き取ったことを確認してから、私はこう言った。

 

  「君は・・・そのままでは、社会に出て仕事は出来ませんよ。

   出来ない人より、違うことをやってしまう人が最も困る。

   違うことで誤魔化して、やったふりをするのは、もっといけません・・・

   君の場合は、どう言い訳しても、上司の人はそう判断しますよ」

 

しょんぼりと下を向いた。私の指示は何も覚えておらず、言葉すら書き取れなかったのである。反論はできない。が、

 

  「君は、レポートに真剣に取り組みましたか?」

 

と聞くと、座りながらキョーツケの姿勢をとり、

 

  「はい、精一杯やりました!」

 

と即答した。念を押したが同じ答えである。

 

 

 

何たることか・・・この期に及んでも、自分は真剣ではなかった、という自覚が生まれていない。何度叱っても、同じことをするはずである。「上司の人はそう判断しますよ」では通じない。

 

 

小学校以来、「一生懸命やりました」と答えるように指導され、その習慣が身に付いている。そのように答えれば、「努力家」としての評価は担保され、それ以上は追求されない。

  

その言葉が、自らを錯覚させ、成長の機会を奪ってきた。

図書館に行き、何時間も本を探した。自分の手で写し、提出した。辛い作業に良く耐えた。自分は真面目な人間であり、努力する人である・・・ 

 

実際に難行苦行である。解っていないものを部分的に写し、繋ぎ合わせて何とかレポートの形にする・・・その作業の辛さが、自分は真面目な人間であると錯覚させる。

 

  

文章を読まず、人の話を聞き流すという生活習慣病の要因の一つは、目的を無視した行為を「努力」として評価する、という学校教育の馬鹿げた慣行にある。これが社会に出ても続くわけではないことを、誰かが一度は教えなければいけない。

 

 

 

  「精一杯ですか・・・

   仮にそれが本当でも、職場では、そう言わない方がいいよ」

 

と私は続けた。

 

  「こういう時は、『いい加減なことをしていました、もう一度やらせて

   下さい』  と言わないと、次の日から仕事がなくなるよ・・・」

 

 

  「真剣でなかったと言うなら、叱ってもう一度やらせよう、ということ

   もあるかもしれないけれど、精一杯やりました、と言われたら、別の

   人にやってもらうしかないからね・・・」

 

  「 問題文もほとんど読まず、計算も自分でやらず・・・

   適当な本を抜粋して、繋ぎ合わせる・・・

   指示されたことは覚えていない・・・実際には聞いてすらいない・・・

   そして、同じものを何度でも提出する・・・ 

 

   それで『真剣にやりました』と言う人に、仕事を任せる上司はいません」

 

 

 

 

無意味な行為を繰り返し、その自覚がない学生は、自分の「努力」を否定されると強く反発する。このような学生に私の言葉が有効であった例は殆ど無い。あくまでも自分の行為は勉強であり、努力であると主張する。

が、就職が近づくと、少数ながら例外も出てくる。社会に出れば、無意味な作業は負の評価にしかならない。少し想像すれば、誰にでも解ることだ。

 

これに気が付くことは、言葉の重要性に気が付くことと、表裏一体である。意味のあることをしなければいけないと悟り、注意して人の言葉を聞き、丁寧に本を読んでみると、実は教師も著者も、意外に親切である。自分がひたすら、情報を無視していたことに、はじめて気付き、卒業間際になって「もっと早く気付いていれば・・・」と悔やむ。

 

 

就職を間近に控え、将来をリアルに想像したのか、次第に表情が固くなった。反抗的な態度は見えない。

ようやく、位置についたかもしれない。私は物理の教科書から文章を見繕い、ディクテーションをやらせた。

 

出来ないわけではない。その気でやれば、ある段階まではすぐ向上する。やや蒼ざめながらも、「真剣に取り組む」ということを初めて体験した。ひとしきりやって要領を覚えさせてから、毎日、ラジオのニュースを聞き、具体的な内容をメモすることを勧めた。一日に最低でも15分、できれば30分以上、ニュースの内容を聞き取り、自分で言葉にする。特に、日時や場所などの、細かい情報を正確に聞き取る訓練を、就職するまで毎日である。

 

実際にやるとは・・・あまり期待していなかったが・・・

 

 

 

I教授の来訪

 

卒業式を数日後に控えたある日、彼の指導教官のI教授が、私の部屋をやかましくノックした。

 

私より10歳ほど年長である。仲は悪くなかったが、過激な性格の持ち主で、独自の倫理感を持ち、とくに教育方針(というより単位の認定方法)について、私と熾烈な言い合いになることがあった。私達2人を、「坊ちゃんと山嵐」と評する同僚がいた。

 

君が理論物理など役に立たないことをやって生きていられるのは、人々が働いて税金を納めてくれるからである。人に頼って生きていながら、卒業させない君は、反社会的な存在である、などと、訳のわからない論理で私を非難するのが常であった。

 

 

 

今回もそうなるのか・・・私にハラスメントを受けたと学生が訴えて、それで文句を言いに来たのだろう・・・

 

と思ったが、山嵐先生は上機嫌であった。

 

 「いやーウラシマ君、僕の学生だけどさ・・・君は彼に、何を言ったんだね?」

 

 「何をと言われても・・・まあ、私の単位を落としていましたから・・・

  かなり厳しく叱って、レポートを何回も提出させましたけれど・・・」

 

 「いや、それは僕も聞いているよ。それがね・・・君に叱られてから、

  何だか見違えるように変わっちゃってね・・・まるで別人なんだよ・・・」

 

 「どうにもならない学生だったのが、今は受け答えも、他の学生よりずっと、

  しっかりしている。行動もきびきびして、あれなら勤めても全く心配ない。

  一体、何を言ったら、こんな短期間に、あそこまで変えられるのか・・・

  どんな魔法をかけたのか・・・ぜひ、教えてもらいたいと思ってね・・・」

 

 

 

魔法など、どこにも無い。

普通のことさえしていれば、すぐにでも普通になる。

普通の事をしなくて良い環境のため、普通の感覚を失っていただけである。

 

 

とりあえず、私の指導を学生が真剣に受け止め、社会に出るまでに間に合ったらしいことは、喜ばしいことであった。ディクテーションの効果は大きい。ドイツの女性の言ったとおりであった。話を聞くという習慣が、まず基本である。それで初めてコミュニケーションが可能になる。教育も仕事も、普通に始められる。

 

この事件の後、I教授は私の教育方針を批判するのを控えるようになった。

さらに10年後・・・大規模な学部全体の履修規則の改変が行われ、卒業を控えての必修科目の再履修は、ほとんど起こらなくなった。

 

 

 

言葉の問題については、この他にも紹介したい例があるが、海外での話なので、しばらく別のシリーズで話すことにしよう。「英国人の読解力と国語教育」を読んでいただければと思う。